●履歴
佐々木素雲は彫刻家だが佛画も描いた。秋田市広面字赤沼に明治二十五年三月二十八日、父佐々木儀助、母キヨの三男として生まれた。名は三之助。十七歳の時、秋田市本町五丁目の佛師、斎藤永太郎の弟子となる。
明治四十四年に上京、米原雲海に半年ほど彫刻を学ぴ、二十一歳で斎藤永太郎の長女エン(明治二十九年十二月二目生)と結婚後、彫刻家を志す。二十九歳の時、当時貴族院議員だった土田万助氏の世話で東京美術学校に入学、帝展審査員の朝倉文夫に師事した。大正十五年、帝展(日展の前身)に安痒(あんよう)と題する木彫で初入選。
その後、他の展覧会の入選すること十数回、全国各地を回って佛像、佛画を研究した。
医者の解剖にも立ち会って、骨格の勉強もした。彼の作品に鎌倉時代の仁王や不動明王のような荒い線がないのは、解剖学から見た彫刻であるからだろう。
代表作は、神奈川県総持寺にあ「後醍醐天皇」の等身像である。
戦時中、軍に献納寸前に戦災を受けて消失した作品もある。昭和二十年春戦災を受けて帰郷、秋田市保戸野川反後町に住んだ。
素雲には子供がなかったので、彼の弟子であった秋田生まれの斎藤彪(ことら)を養子にした。彪はのち帝展審査員北村西望の弟子となり、日展に二回入選したほか、秩父宮妃殿下に「おきな」が買い上げられたが、養父素雲に先立ち二十年十月十二日なくなった。秋田市迎信寺に墓地がある。法名松月院彫山至道居士。
素雲の制作による県内名士の像は各地に見られる。県文化財専門委員となり佛像、佛画の鑑定に当たった。長年、県美術展の委員(彫刻部門)もつとめた。また秋田市泉の石塚敬昌氏の墓石は、素雲の設計による五輪塔と板碑である。石工が製作に当たった四十日間、彼は十五回も石工店を訪れ熱心に指導した。
秋田市八橋、月桂寺にある鎌倉初期の佛像は、念を入れて十二、三回も見に行ってから県文化財に決定したほどだ。「大きいので、初め鉄製の室町時代の物でないかと思ったが、一部を削って見たら銅鋳であったので驚いた」と語ったことがある。
いつも羽織はかま姿で礼儀が正しかった。晩年、酒に酔って羽織はかまのまま家で寝たことがあってから禁酒をした。秋田市南通亀の町の自宅で、昭和四十三年十二月二十三日朝病死した。
木材界の先覚者、井坂直幹の胸像制作に取り組み、九分通り完成した矢先だった。七十七歳。秋田市天徳寺に葬る。法名は知足院殿鶴堂素雲居士。
昭和45年7月25日秋田魁新報社「秋田の人物」佐々木善三郎(秋田市旭北栄町) ●齋藤佛師との関わり
佐々木素雲は孤高の彫刻家であった。彼は明治42年地方では珍しく、優れた技量を持った六代目佛師齋藤榮太郎の元に弟子入りしたのは17歳の時であった。生来の頭の良さに加え勘の良さは抜群で、一つを教えると十覚えるとい言う素質は、門下の中でもすぐに開花し、また多くの弟子の中でも際だっていた。
齋藤家はその当事三姉妹で、男子はいなかったので、榮太郎の長女エンと養子縁組させた。エンは当事、川反芸者と言えば秋田を代表する美人揃いであったが、その芸者衆とも引けを取らないほどの美人であった。
ところが不思議なもので養子縁組の後すぐに、七代目憲一が生まれた。そこで榮太郎は縁組みを解消、優れた素質を伸ばすべく美術学校へ彼を送った。米原雲海・朝倉文夫等の超一級の師についた素雲はそこでも優秀な作品を残した。その作風、業績はギャラリーを参照いただければ自ずと証明されることと思います。
彼には、子供がいなかったので弟子であった彪(ことら)を養子にした。彪も北村西望のもとで学び将来を期待されたが、若くして病に倒れた。(第5回文部省美術展覧会出品)素雲は生来の子供好きで特に姪の子、岩見谷義長氏を可愛がった。彼は今も秋田市通町橋の袂にある、素雲作俗称「小便小僧」のモデルの一人でもある。
第二次世界大戦中,戦災で故郷秋田に戻り、秋田県の芸術家に与えた影響は大変大きなものであったと思います。ごゆっくり、彼の作品を堪能下さい。
●文化財との関わり
素雲は秋田県の文化財の専門委員として、旺盛な研究心と持ち前の豊富な経験で、数々の文化財を発掘した。また一方疑問な点については徹底的に調査し持ち前の潔癖さで妥協のない鑑定をした。調査したいくつかの解説を紹介する。
●下絵集
彼は絵の分野においても、十分その才能を発揮した。彫塑の時の下絵また制作時は必ず下絵を制作依頼者に送った。その原本が多く残っているので、紹介する。
●後醍醐天皇御尊像制作資材帳
素雲の代表作ともいえる総持寺後醍醐天皇尊像は、巨大な檜のご神木を用い、作られた。その資材帳ともいえる克明な記録が残っている。
●備忘録
何でも書き留めることが、好きなようだったので、データーベースを作って、残しておこうと考えている。
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