秋田市 齋藤佛師ホームページ

佛師について


佛師について

1)齋藤佛師系統図

2)法印丹海(佛性院)

3)慶派佛師と丹海との関わり

4)榮太郎(丹榮)

5)「彫刻家 佐々木素雲ギャラリー」

齋藤佛師系統図

業 祖   法印丹海(佛性院)     明和7年〜文政元年 1770-1818
一代目   齋藤 市郎衛門            〜弘化2年     -1845
二代目   齋藤 市衛門              〜嘉永2年     -1849
三代目   大佛師 丹譽(佛掌軒  安永09年〜嘉永2年  1780-1849
四代目   大佛師 市右衛門丹譽  文化12年〜明治24年 1780-1849
五代目   齋藤 爲吉          天保14年〜明治32年 1843-1899
六代目   齋藤 永太郎(丹栄)   文久03年〜昭和08年 1863-1933
七代目   齋藤 憲一          明治44年〜昭和55年 1911-1980
八代目   齋藤 雅幸          昭和17年〜        1942-




法印丹海(佛性院) 慶派佛師と丹海との関わりへリンク
 
 佛性院丹海は別号白樹と称し、南部藩士にして初め禅僧となり、生来佛像の彫刻 を好み其の妙を得たり。後上京して佛師となる。修行の上秋田に来てり。新屋薬 王院の住持となり真言宗となって妻帯す。秋田八幡神社及び金砂神社の彫刻は丹海の手になりしものと云う。その他処々に佛像を刻み安置する。文政元年寅十月二十五日没す。 (秋田英銘録より)
 尚、橋本金太郎氏所有の天神像裏書きに「前佛性台院 薬王密現住 謹 丹海」 と有り、前住の佛性台院から佛性院の名を取っのたかも知れない。又、今はない丹海の墓石には、「贈法印丹海不上位」とあり没した後で「法印」を賜ったとも 考えられる。「法印」について叔父佐々木素雲に聞いたことがある。慶派の直系系図などを見ても、法印は大変価値ある位ではと尋ねたところ、江戸時代も末期になってくると、位そのものが崩れてきたと聞き及んでいる。

丹 譽

 久保田の人、佛性院丹海の門人にして、本町五丁目齋藤榮太郎は其の裔なり。八橋日吉神社の六歌仙の額を彫刻せし人にして地方には珍しき手腕を有し、佐々木素雲は齋藤榮太郎の養子なりと。(秋田英銘録より)
 八橋日吉神社の「六歌仙の額」の彫刻より見たことがなかったが、新屋日蓮宗実 相寺に有った身丈八寸あまりの鬼子母神は見事であった。(昭和五十七年火災で 焼失)今後の、作品に出会うことを期待している。

爲 吉

 市右衛門には子供がなく、為吉は齋藤家の養子として迎えられた。先年小樽の小野某なるお医者さが尋ね来て、色々尋ねらるるも現在では如何とも成し難し。ただ齋藤榮太郎、三女の小林ヨシ(叔母)の話によると為吉は「小野小町」の小野家の末裔なりと聞き及んでいる。
 父憲一の話によると、齋藤家には系図があったが、隣からのもらい火により全て が消失したと聞いた。どの代かは不明(雅幸記す)

榮太郎(丹榮)


 英銘録の中にも時々登場する文化人肌の佛師である。腕前も傑出しており又多くの優秀な弟子達を輩出した。
    榮太郎の弟子達
      1.小 仲 倉 吉
      2.佐々木 素 雲    齋藤  彪(素雲弟子弟子(後養子))
      3.越中屋 源太郎
      4.橋 本 金太郎    長崎  徹
      5.平 岡 忠 一
      6.加 藤 豊 治
      7.八 代 英 治(萩村)
      8.田 中 忠 徳
 
佐々木 素 雲           「彫刻家 佐々木素雲ギャラリー」へリンク
  

 佐々木素雲は彫刻家だが佛画も描いた。秋田市広面字赤沼に明治二十五年三月二十八日、父佐々木儀助、母キヨの三男として生まれた。名は三之助。十七歳の時、秋田市本町五丁目の佛師、斎藤永太郎の弟子となる。
 明治四十四年に上京、米原雲海に半年ほど彫刻を学ぴ、二十一歳で斎藤永太郎の長女エン(明治二十九年十二月二目生)と結婚後、彫刻家を志す。二十九歳の時、当時貴族院議員だった土田万助氏の世話で東京美術学校に入学、帝展審査員の朝倉文夫に師事した。大正十五年、帝展(日展の前身)に安痒(あんよう)と題する木彫で初入選。
 その後、他の展覧会の入選すること十数回、全国各地を回って佛像、佛画を研究した。医者の解剖にも立ち会って、骨格の勉強もした。彼の作品に鎌倉時代の仁王や不動明王のような荒い線がないのは、解剖学から見た彫刻であるからだろう。
 代表作は、神奈川県総持寺にあ「後醍醐天皇」の等身像である。
戦時中、軍に献納寸前に戦災を受けて消失した作品もある。昭和二十年春戦災を受けて帰郷、秋田市保戸野川反後町に住んだ。
 素雲には子供がなかったので、彼の弟子であった秋田生まれの斎藤彪(ことら)を義子にした。彪はのち帝展審査員北村西望の弟子となり、日展に二回入選したほか、秩父宮妃殿下に「おきな」が買い上げられたが、養父素雲に先立ち二十年十月十二日なくなった。秋田市仰信寺に墓地がある。法名松月院彫山至道居士。
 素雲の制作による県内名士の像は各地に見られる。県文化財専門委員となり佛像、佛画の鑑定に当たった。長年、県美術展の委員(彫刻部門)もつとめた。また秋田市泉の石塚敬昌氏の墓石は、素雲の設計による五輪塔と板碑である。石工が製作に当たった四十日間、彼は十五回も石工店を訪れ熱心に指導した。
 秋田市八橋、月桂寺にある鎌倉初期の佛像は、念を入れて十二、三回も見に行ってから県文化財に決定したほどだ。「大きいので、初め鉄製の室町時代の物でないかと思ったが、一部を削って見たら銅鋳であったので驚いた」と語ったことがある。
 いつも羽織はかま姿で礼儀が正しかった。晩年、酒に酔って羽織はかまのまま家で寝たことがあってから禁酒をした。秋田市南通亀の町の自宅で、昭和四十三年十二月二十三日朝病死した。
 木材界の先覚者、井坂直幹の胸像制作に取り組み、九分通り完成した矢先だった。七十七歳。秋田市天徳寺に葬る。法名は知足院殿鶴堂素雲居士。
            昭和45年7月25日秋田魁新報社「秋田の人物」佐々木善三郎(秋田市旭北栄町)

  齋藤  彪(ことら・弟子(後養子))

 北村西望に弟子入り日展二回入選、秩父宮家に買い上げられる。第5回文部省美術展覧会出品)
昭和20年10月12日病のため31歳の若さで、齋藤家で亡くなる。仰信寺に見事な菩薩のレリーフ有り。

  橋 本 金太郎
 
 92歳まで仕事一筋。位牌など平物彫刻の腕は、右に並ぶ者無し。塗り箔まで全て自身で仕上げた。満福寺・光明寺に多くの作品有り。
  
  八 代 英 治(萩村) 
 
 牛島の人。金之助次男。東京美術学校彫刻科、三年級 出席を占めしも、病のため退学す。s3.3.30没す。満福寺に葬る。(秋田英銘録より)


プロフィール
   齋藤 雅幸 1942年2月生まれ。
 1960年秋田商業高校を卒業と共に、家業の7代続いた佛師の仕事に就く。修行の後、昭和55年7代目死去の後から本格的に佛像を彫り始める。国内・外の彫刻や佛像の研究・視察のため各地を巡る。師匠は7代目憲一。3年余にわたり京佛師松久朋琳氏より通信にて手ほどきを受け、現在にいたる。


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