秋田市 齋藤佛師ホームページ
素雲 文化財調査記録文責 齋藤 雅幸 2005年1月5日 |
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萬固山天徳寺 十三佛 南秋田郡脇本村 有形文化財 調査報告書 男鹿拝観記 月桂寺阿弥陀如来考察 木造 聖観音菩薩 綴織佛涅槃図 |
萬固山天徳寺 草創(天徳寺起源) 本寺は上州御嶽永源寺 諸嶽山總持寺第二世峩山紹碩禅師五大弟子のうち通幻寂霊大和尚五世の孫一州正伊四世の孫、幻室伊蓬関山(天文15(1546)2月朔日遷化) 開基は上州佐竹義人建立 義人建立以後は黒石門徒、玄翁派。開山独堂。 大旦那は脇?木?左輔義繁 竹堂(義人号)以来其の菩提所となる。明堂代 義人夫人菩提のため建立したものであるという。 天徳寺殿甚山妙幸大孫定尼。義盛嫡女(寛政3年2月2日卒) 御霊堂は義隆の意を奉じて義処が寛文12年8月建立(秋田沿革史大成には11年5月とあり) 秋田天徳寺は六世鳳山善達慶長7年遷封の際供奉来秋。 寛永元年12月27日酉の刻、天徳寺炎上 此時小野崎吉内火中にててん心公(義重)位牌取り出し手足額等悉く焼け爛れた。 泉へ移建された”3年12月27日恒例の通夜に入る”と言うことからその以前建っていたことになる。 延宝4年辰12月8日酉刻 中間部屋より出火。本堂・祈願堂・僧堂・米蔵共無残焼失。梅津半右衛門忠宴、即時馳せつけ消火。同藤右衛門も同様。亥の下刻鎮火。御霊堂跡形なく江湖寮・風呂屋・心者寮・雑蔵2つ・大門・裏門・鎮守堂・能曲場の板塀残る。 信公天英公位牌、御繪師中村附兵衛持ち出した。 山門下の方半分程焼失。 天英公の御??且つ義処公御自筆紺紙金泥の金剛経此外重物無残焼失した。 義宣が鋭意新天地経営に努め、二代三代と藩改の確立するに及んで文化意識も漸く顕わすに至り、殺伐たる羽後の地にも造形美術をもって幾分彩られるようになったのである。 当時徳川将軍もはじめ為政者階級の嗜好に総じて最も勢力のあったのは狩野派の絵画であって、我藩もまた此の埓内にあったのです。 秋田三世義処公時代この12郡周囲を招き城の障房画を描いたと思われる。狩野造栖定信は承応頃久保田に来たが之が秋田絵画の澄陽を成したと思われる。 佐竹義宣公、矢留城移転(秋田城と称す)慶長9年8月28日 秋田入りは慶長7(1602)年9月17日土崎城入り。新秋田城は地を搗くこと8丈、東西64歩南北120歩、東南に正門、東北に搦手の門 義処、義長合作 義林――紺地金泥八句陀羅尼顛 (義苗のこと) 紺紙金泥地蔵経 義処筆? 狩野洞雲の地?? ???あり 紺地金泥八句陀羅尼 貞明院筆(夫人) 義敦公???? 法華経 義堅筆 詠集壱物 義和公筆 貞妙院殿御一周忌 上余に当寺38・39世但し文なり 紺紙金泥法華経 義?公筆 聖観音 念持佛 壱躯 ○竹中筑後守、寛永年中秋田藩託幽されたきりスト信奉者大友宗隣と同輩なり ○寛永11年甲戌2月22日江戸に於いて竹中筑後守殿父子御預かり、3月9日久保田元御下也。 ○寛永15年戌寅 8月29日御預け人竹中筑後守殿嫡子死去、江戸表へ???9月20日久保田大悲寺に葬る。 ○寛永16年巳卯7月28日竹中筑後守殿卒、後江戸御使園田六郎衛門殿下り検死(安藤和風書 秋田の工と人) 二代義隆公時代 ○寛文11年五月天徳寺内へ霊屋を新造する。 ○寛文11年八月2千石以上の侍は其の御霊屋に石燈篭を献上す。 ○延宝二年12月天徳寺焼失 ○元禄5年3月28日寺町一番院境内へ大八幡神社建立。 ○元禄13年7月20日八橋帰命寺に徳川家の霊屋を造る。寺領50石を与える。 義処公、襲禄の翌年延宝2年8月24日霊元天皇と上皇女院に男鹿嶋の画をかくしめた屏風を献上 狩野永球法橋画。 ○元禄11年良超北楊(修験とも言われている)。行者堂を保戸野に建てた。 ○良超子北楊享保10乙巳年正月遷化。松山本念寺に葬る。 能代住吉永僧大光院桂葉が大頭として次ぐ。 十三佛 密教における胎蔵界曼荼羅野十三院をかたどり作られたもの 経軌の説ではなく後人の説なれども作者を詳にせず日本で出来たものである。 中央 大日如来 北方 釈迦如来 東方 阿※如来 南方 宝生如来(勢至菩薩) 西方 阿弥陀如来 大日は金剛界 四維の普賢 文珠 観音 弥勒 他は胎蔵界 天位に虚空蔵 地位に地蔵 藥師 不動の三尊をおく 南秋田郡脇本村有形文化財調査報告書 昭和27年5月21日 奈良会長と同行脇本村天野源一郎氏同村助役吉田氏等の案内にて阿弥陀堂、宗泉寺、菅原神社、天野氏所蔵昌寺を観る。 由緒や縁起及び建築等は奈良氏より報告の筈で、左記は私の仏画彫刻調査要項である。 五月廿六日 委員 佐々木素雲 阿弥陀堂 脇本村浦田 本尊 阿弥陀如来 坐像高一尺七寸餘 木彫 寄木造、内刳り、金箔彩色剥落して衣紋凹所等に幾分残存する。 頭部の前半面、左右膝脇、又右上肢前膊部欠損し後補の手あり。 体躯の衣紋に古様が窺はれるが拙い地方作で光背や台座等後補、蓮華は魚鱗に葺き花弁は筋彫り、室町末期の地方作の一形式を成してる。男鹿文化史の資料にはなるであろう。 宗泉寺(元天台、現曹洞宗)仝飯森 本尊 薬師如来 脇侍他数躯あり、法量を逸す木彫漆箔、明治中期の地方の拙作。 胎内佛 本尊の胎内蔵の秘佛三躯 青銅造 立像 各像共光背台座を欠く(一光三尊である) 大体において均整よし。 中尊像高一尺三寸(髪際迄 一尺一寸九分) 両脇侍像高九寸(髪際迄 八寸) 中尊の右手後補 =木彫にて 服侍一尊の右足部欠損 特徴、中尊の髪は京都嵯峨清涼寺釈迦像様である。 脇侍の宝冠には標識がなく手は一尊が左手上、又一尊は右手上である。(善光寺如来形式) 同寺の記録には訳詞三尊とあるが誤りで善光寺如来三尊である。 中尊の左手印相は正しく、後補の右手印は誤りで若し後補の通りとすれば下品下生の弥陀である。しかし脇侍の手印が善光寺如来三尊式で決定的である(栗田藤治著南秋田郡史の詳説は記録にとらはれた誤り) 地蔵菩薩、立像像高一尺三寸(目測) 木彫一本造 僧潜巌作 潜巌は仙北の産、幕末より明治初年に渉り諸方行乞の間法衣の袖の中にて作ると伝えられるもの、墨書銘と大きいのは珍らしく有名なる木食明満の作佛より品位高く且つ愛すべきものである。 菅原神社 脇本村字脇本 神体 菅公像 坐像 高一尺 木彫 寄木造 内刳り 彩色剥落して素地を露はしてるが袍の下襲の袖に朱色を残存する。 巾子及び持物の中啓は後補である 宝永年間修復の文書あり 装束 衣冠 室町時代末期の作 同神社社殿装飾彫刻 拝殿の欄間は絵様枠に24孝の一「雪中の筍掘り」を中央に左右天人の彫刻を極彩色してある。天人の神社装飾は異様であるが之は元本山の薬師堂を譲り受けたものとのことである。輪魚の彫刻は江戸時代の作、秋田地方では二流の出来である。 天野源一氏所属の繪画 十三佛、絹本、中一尺三寸 長三尺八寸 極彩色、流暢な細線描写、設色よく紋様に悉く截金を用ゐ巧緻鮮麗、画品又高い。室町時代前期の優作、装洪の汚損は惜しいことである。 同氏宅で見た某寺の廿五菩薩、一幅、絹本、江戸時代前期のものと思う。 繍佛を見たが始めてみる此種のものは珍らしく尚研究の要がある。 以上であるが県重要文化財として指定をようするものは宗泉寺の善光寺如来三尊像、天野氏蔵の十三佛、菅原神社の菅公像を挙げる。(完) 繪画 絹本、着色 十六羅漢像 十六幅 巾一尺二寸七分 長 三尺一寸八分 秋田市泉 天徳寺蔵 羅漢像は繪画でも彫刻でも胡貌梵相とて怪奇異様な相貌のものが多いが本図像はあまりそうしたものがなく、李龍明様といはれる像容である。 圓光や調度の一部に截金を用い、腕釧や香炉等には胡粉と雲母泥を混合して盛あげ金箔をおき、又群緑等五彩の上に金泥をもって文様を描き身にまとう衲衣の肥痩の描線や背景の花鳥風物等和様の濃い名作である。 寺伝は兆殿司筆と称しているが、落款もなく又確証もないので吉山明兆策とは断定し得ないが宗元の古様を学んだ我が室町時代初期の専門繪師の、手になるものと思う。 十六幅中第十三の因掲陀尊者のみは筆者が異なり人物も小さく描法も全く別である、 図の下端左方に「香椎」の二字が墨書されているが何のことかわからない。 天徳寺には元十六羅漢像が二種類所蔵されていたが昭和の初年盗難に遇い、その一種即ち現存のものが横浜で発見返還された。その際他の一幅が紛れこんだものとおもはれる。 正徳年中秋田四代の藩主佐竹義格公の施入されたものである。(佐々木) ○親鸞上人の阿弥陀仏画像 天堂氏蔵 ○八房の梅 岩倉村梅の沢 鹿島神社 ○岩清水 對の飴石 間永村延命寺台 ○洞泉寺 金川村 ○八幡神社 増川村 ○女川殿址 貞和記 力士門棟札元亀3???(1570) ○赤神神社 本山神社とも言う 清和天皇貞観2年慈覚大師より赤神山日積寺永禅院と号を与えらる。 建保4年叡山七社を倣い五社堂を建てた。 永禅院什物 漢武帝画像1(現本山神社社務所所有) 両界曼荼羅2軸(現長楽寺所有) 宝篋印塔・雨乞面・日和面・??名号・眉間逆頬・二鬼牙 ○目黒氏 江戸彦五郎清房の裔 ○台堂古碑 山田村に行く途中にあり。康永年号あり、義季の時代? ○日枝神社 北浦 祭神大山咋命(くい)染川城主。安部氏の鎮守 大政年間(崇徳帝時代)安部季春、本社を染川より移し康永3年(1345)義季頃 その棟札、36歌仙額、実季の画、神勝竹内氏の祖先が1のめ潟の妖怪を射し ?ありと ○永源寺 鵜木村 湧木五郎修季(ながすえ)の位牌あり 以上昭和28年 7月13日調査の察の予備記である。調査の結果は拝項のとおり。 7月13日 ◎祥雲寺(増川) 弥蛇座像 上品上生 髪際まで三尺 光背 蓮華唐草 透かし彫り 漆箔 十二光佛を配している 脇侍 観音 勢至 立像 髪際まで2尺7寸 江戸時代中期 土崎街道 住職 奥山氏 ◎赤神神社(本山神社) ○漢武帝像 絹本 3尺3寸x4尺8寸 蝙蝠 黒毛2 白毛2 赤毛1 明画らしいが、用絹は日本製と思うので疑問 江戸時代初期、それを遡っても遠くないものである。 (宮司 元山氏) 石造り狛犬は鎮子で相貌?奇?すづき?、室町時代であろう。 ◎長楽寺 ○愛染明王像、木彫彩色 髪際まで 1尺1寸 條帛、裳等盛り上げして金箔押し。模様 室町末期〜桃山時代である。 ○金、胎蔵界曼荼羅 絹本 鎌倉時代末期 ◎五社堂 ○聖観音 木彫 ○十一面観音 腐食甚だしくそれにいずれも地方作である 藤原時代の物 ◎星辻神社(湯本) ○妙見菩薩 鋳物2寸 光背とも3寸5分 江戸末期 ◎休寶寺(真宗大谷派) ○本尊 新作 ◎雲昌寺 ○本尊 ?影系の釈迦 地方拙作 ○座像一点 ◎常在院(曹洞宗) ○如意? 江戸時代か明治初年 地方作 ○涅槃像 ??大作 明治初期 昭和28年7月13日から15日の男鹿拝観記 (平成16年1月3日入力) 拝観したものの2,3について愚見を申し上げます。 ○漢の武帝は模写と承りましたが後で見た関羽・孔明などとは比較にならぬ立派な描写、作画時代を松圃先生から聴きえなかったことが残念です。 王母と唐王でないかととのお話でしたが西王母の仙桃を盗んで食い仙となった東方朔が武帝の代に現れて寵され、また武帝が元狩5年に仙鹿を得て放たれたとあり、それに徐福が白鹿車にのるなどとあったり鹿や蝙蝠が祥瑞としてあつかわれ秦の始皇・漢の武帝が求仙に志て東海沿岸を探検したことがあるといい、それが今の山東省青島付近とあるからだいぶ男鹿に接近したわけで、勿論支那列仙伝は垂涎三千丈でしょうが男鹿の武帝説は面白い。蘇武や武帝の将来とう男鹿は神秘の島である…・と請松たる四方の海を眺めて思ったことです。 ○鎮子の狛犬(石造り)は室町でよいでしょう。相貌の面白さは類が少ない。模刻が欲しいものです。何ともいえない妙味がある。 ○五社堂 ○長楽寺 ○安全寺 薬師如来、木彫座像、室町時代の作。同行の諸氏は疑問視していたが、一寸解りにくかったかも知れない。修理の際玉眼嵌入で面相若干原型を壊しているし、また右手の衣紋に補修がある。相対的に雄勁な彫技。木地に表れている生反り(かんな)仕上げも美しく寄せ木の法もこの時代の特徴がよく出ている。側面から見れば光背(破損)蓮台は同時代で他の台は後補である。京都でなく奈良か鎌倉佛師の作と思う。 北浦の常東院であったか、聖衆来迎図は見ましたが補筆のことを大分問題にしていたが時代と…・した品で出来はよくないが鎌倉末か南北朝は下るまいと思う。万体地蔵は先ず中尊を三尺位に造顕すべきでしょう。その上での万体佛ではないでしょうか。 恩荷以来の神秘の扉を少しばかりのぞき見した感じで嬉しく、重ねて厚く御礼申し上げます。 天堂先生 月桂寺阿弥陀如来考察 昭和31年2月29日 先日市の文化財保護委員と共に八橋・寺内をまわった際はじめた拝観したが格子の扉をあけて一見、その偉容に打たれた。しかし時間が制限されて十分観察することが出来なかったが気に懸かっていたので27日午前午後にわたり詳細拝観した。 静寂そのもののような慈眼、美しく通った鼻梁、花が咲いたような唇、相貌実に円満、螺髪は細かく前額髪際35粒を数えられまた両肩はなだらかに肘張りも少なく、結跏趺座動ぜざるひざの比例、流暢な衣文等、練達の彫技になる定朝様式のおおらかな尊容、両手の印相よりいって下品下生の阿弥陀如来で暫し吾を忘れて恍惚とさせられた。しかもそれが鋳造の像であるだけに一層驚嘆をせざるを得ないのである。 この藤原調の像が何時頃鋳造されたかといえばその鋳造技法より見て鎌倉時代初頭と思われ原型は木寄せ法に木彫像によったことは頭部が分鋳されて首臍で差し込まれ膝は同じ法法で胴体に接合し右手は膝の関節よりつけてあり、左手は手根部の衲衣に差し込みにしたいわゆる吹き寄せで全体的に1分半くらいの厚さに鋳造されてその精巧なのにまた驚いた。 鋳肌の荒れているのは伝えられるがごとく河中にあったとすれば流水や砂礫などによる傷であり又露佛で放置された時代も想像される。月桂寺に安置されるまでの間に転々としたことは後補ではるが木造の蓮華と返花が上下逆にした台の上に置かれたことでも判る。 紀念銘でもあろうかと蜘蛛の巣やホコリの中をくぐって懐中電灯で点検したが無く、惜しいことに膝の前部と背面に損傷があり、又右手の中指が欠け損じている。 藤原末鋳?初の堂々たるこの像が果たして勝平寺のものか、或いは四天王寺のものでなかったかろうかかと疑われるもするがこれは郷土史家の研究にまたなければいけない。美術的にも極めて優秀な半丈六鋳造の仏像は全国的に見ても少ないものと思われ、実に貴重なものでありまさに国宝級のものである。斯うした民族の誇りとでもいうべき貴重な文化財が保護保存のみならず、、一般の人々の目に触れ親しみと喜びを与えるような設備がほしいものと毎回痛感される次第である。 謹啓 此の度はご厚意により矢島の文化財を拝観する機会に恵まれ詢に有難く御礼申し上げます。ご承知通り文化財の保護保存は至難の事業で理解と同情がなければ無い得ないことと存じます。 御地には尊台のようにご熱心な方があるので幸いであり、敬服する次第であります。 先物件は指定申請をお勧め致します。 ○生駒項肖像 ○生駒公佩用、鞘壱の太刀 ○生駒公黒装の太刀 ○生駒公着用の甲冑(秋田および矢島の資料) ○大江氏所用大身の槍(郷土史資料) ○国重作 刀 (秋田刀工史資料) ○金工図譜(写本等)(資料) 十二神将に付いては小私見を真坂氏まで述べておきましたからおついでの際??下されば薨人に存じます。 右御礼旁々申し上げます。 9月2日 佐々木素雲 菊地隆太郎様 拝啓 此の度は万々の御厚情詢に有難く御礼申し上げます。 翌日は高建寺・八幡神社・観音堂・真宗寺院(名号を逸す)等拝観して午後三時50分発で帰りました。 高建寺では宝塔内に約四寸(台共)の阿弥陀の座像があり鋳造で様式は平安初期と思いますが焼身で顔容が全然分からず残念でしたが実に時代特徴がはっきりして珍しいものです。?製でなければ珍中の珍。矢島では最も古いものと思います。 八幡神社の神体は尺余の観音か何れ菩薩像で木彫施彩・玉眼脱落・胡粉下地が残って時代は江戸、地方作。又狛犬はずいぶん変わってて面白く江戸時代を遡っても余り古くはない地方作であります。 広祐寺(浄土真宗)には絹本の阿弥陀立像図があり、再装こうの再補筆や円光の切り抜き等があります。 12神将銅像(会場にあったもの) 羊首を頭上に頂いていることが覚禅鈔に波夷羅大将とあり、仏像図彙にはあに羅大将とあるものですが、元徳三年云々とは異なるものと思います。大体の様式は室町から江戸のものでありますが、着衣の裾さばきの衣文や岩座は江戸時代方でもあるしまた像と台を着けてある金属=棒様=は純金でない限り数百年を経ても変色せず、金色を保っていることはあり得ないことです。それに像の方は何か塗料を塗ってあるらしくも見え、駒の王子のような自然の古さではない。青銅と白銅と言ってもそんなに差がない。錫の合金差が2・3%ぐらいですから数百年をを経れば?似たものになくさことと思う。 それでこの神将像は幕末から明治初年頃のものではないかと見たのであります。古びは香煙によるもので駒の王子とはまた異なるものであります。 鋳造佛に付いては前に言ったように自信がありませんが、様式とか、形式とは時代共通のものがあり大抵判断がつきます。高建寺の小銅像と共に東京の専門家が来秋のときに鑑てもらった方がいいです。 差当って申請するものは(私関係分) ○生駒項肖像 ○生駒公佩用、鞘壱の太刀 ○生駒公黒装の太刀 ○生駒公着用の甲冑(秋田および矢島の資料) ○大江氏所用大身の槍(郷土史資料) ○国重作 刀 (秋田刀工史資料) ○金工図譜(写本等)(資料) 菊地・相庭・佐藤儀孝・須貝・木内の諸氏からは名刺を頂いたので礼状出しますが町長その他氏名を忘れましたので、礼状を出さなければいけない人たちの氏名をお知らせ願いたく存じます。真宗の御住職さんも何分宜しくお願い申し上げます。 右御礼旁々乱文多? 9月2日 佐々木素雲 真坂周三郎様 9日の魁夕刊にありました阿弥陀立像は8日午前所有者の菊地氏が指定申請するよう勧められたから念のため持参したから見てくれと言うことでした。 話は新聞の記事通りでしたが荻生博士は鎌倉末室町初期頃と便箋に墨書きの証明をしていました。頃と言うのでした。 京都出来は間違いなくしかし正当仏師の作ではない。面僧の長い両眼瞼間と鼻翼と口角線を等しくする江戸時代の傍系はの仏師の技法と徒に安定感のない高い組み立てなど典型的に江戸時代の仏像でした。恐らく寛永前後であろう。 申請しても、江戸時代のよいものだから大切に保存するように話した。それが翌日の夕刊に大きく扱われているので聊か呆れたのです。 11日の委員会に写真を添えて申請書が出ていましたが、松国?氏は10年も前にみたといい、鉄城氏はよほど前に見たとのこと。但し申請書には両氏の保証?がなされていたので狐にでもつままれた感じでした。 荻生博士の頃が愛嬌ではなかったでしょうか。一見して江戸時代の仏像をそのようにしたのは、土地の鑑査者に敬意を表したと考えては失礼か。私には分からないところであります。 新聞の発表は文化財(一般の関心を寄せる意味では結構ですが)いま少し実相を報道して欲しいものと思っています。 12月12日 佐々木素雲 天堂源一様 拝啓 実体を見ないで写真だけでは確言出来ないが、菩薩の尊顔の眉端と鼻翼と口唇とが直線内にあるもは江戸時代の中期頃の一派の仏師の作風であります。 台座の組み立てや光背の唐草模様は江戸時代の様式で像と一具のもであります。 面相、胴体など量感の乏しいのも時代の特徴であります。 手の拙いのは後補のためでありましょう。でも大切に御保存保護を希(こいねがい)います。 右写真を拝見した私の見解であります。 2月19日 佐々木素雲 成田格二様 籠対寺と廟 この名の寺は秋田にはありません。和尚もしらず、或いはお説の聲体寺ならんかと言っております。 政景を開基とする寺は應供寺ですがご承知の通り臨済宗で、そこに梅津の廟があったか?。 竜泉寺は時宗ですが上州に在りし頃佐竹の菩提寺であったそうですが慶長の移封と同時に秋田に移建、そこに廟があったのか。 大体以上のようなものであります。誤字や当て字は相当あるものと思われますが、如何でしょうか。天徳寺の記録にも明和本は玖山松欣で後代のものに玖山正欣とあるなど、そんなことが平気で書かれたものでないでしょうか。良豚が良豕=良頓といったように。もっとも天徳寺は三回も炎上しているので果たして正しいものか。政景日記が正しいか、私共にはわかりません。右お返事まで (秋田は桜の花も散り初めておりますがまだ底冷たい気温が続いております) 5月4日夜 素雲生 栗田先生 木造 聖観音菩薩 立像一体躯 像高 2尺8寸 由利郡下川大内 金峰神社 檜材 寄木造り 洗われたものの如く細い糸木目の木地を露わし黒色をしている。 天衣を損失し白毫及び両手は肩部よりまた両足は膝下より拙い後補である。 面相・衣文とう原像は彫技優れ宝髷結髪に特色があり鎌倉末から吉野朝中央の仏所において造顕されたものと思う。 同神社境内住吉神社の主伸として祭祀されているが住吉神社はすなわち聖観世音菩薩であるとする本地垂迹説によるもので、そのまま遺存されているのは珍しい。 綴織佛涅槃図 一幅 江戸時代 秋田市寺内 西来院蔵 縦18尺 横15尺 構図は類型的なものであるが綴織のしかも大作全国的にも異色のものであろう。 金箔及び五彩の糸を用い色調も織物とは思われぬ位優れ囲繞の人物鳥獣戯画の悲表を巧みに著わし表情を殊に入滅直前の老釈尊の面相至妙である。 文化3年戊辰年織始 文化9年壬申年織終 画工津村調達 織工村上円八門人石川忠吉の作者及び発願主等の名も織り込まれ図中他に類例のない猫を配しているが前後五年にわたる製作中、ねずみの害を護った功によるという。 村上円八は京都西陣より秋田藩織物業の祖石?滝右衛門に招聘されたものである。 当時は秋田藩中興の英主佐竹義和公の治政下で染色を奨励した時代ではあるが、あまり発展していたとは思われないが、城下町において此の珍重すべき大作をなしたことは、驚異に値する。 西来院は曹洞宗大本山總持寺直末。松原補陀寺第二世無等良雄閑居所である。注ーー閑居所傍線(神光寂照禅師康暦?2年寂)の閑居所である。
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