素雲 備忘録文責 齋藤 雅幸 2002年8月17日 |
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唐宋元明画展覧会 狩野画系図 鍛冶橋狩野 駿河台狩野 木挽町狩野 中橋狩野 浜町狩野 小田野直武 安政頃の秋田絵師 天徳寺建造物 佐竹義宣公 鍔工 秋田遷都 350年記念祭草案 鉄砲注文始め 仏教青年会 公演草稿 私の生まれた町の 正月 色々の出逢い 天堂先生 平泉・藤原三代の 遺業見学報告 月桂寺 阿弥陀如来考察 天徳寺の 什宝について 秋田市建都350年 秋田藩の美術と感想 陳情書 |
昭和二十八年一月 狩野画系図・玉楽・十三佛・象潟古四王神社・八橋五菩薩・本荘永源寺・小友宝円寺・平沢町高昌寺・天徳寺記事等 昭和3年11月24日より12月16日まで東京帝室博物館及び東京府美術館に於いて開催された唐宋元明画展覧会朝日新聞社発行の図録の序文 今秋聖上陛下の御大礼を挙げさせらるに際し、東京博物館及び東京府美術館に於いて、11月24日より23日の間唐宋来、我国に伝存せる御物国宝の類をはじめ諸家の収蔵を一同に展陳するは未曾有の偉観で、また東洋の画界に一新紀元を画するものといってよい。 由来、支那美術は数千年の歴史を有し、其の間作られたる神品傑作はその数を知らず。また彼の名跡にして我が国に将来せられたるもの安決して少しとしない。然るに従来かくのごとく両国間に重襲珍蔵せらるる古名画を併せ観る機会は全くなく、風馬中梱関せざる観があったが、ここに各々珍抜を まず秘庫を開いて上は唐宋より下明に至る四朝の名家の精華を選み、共に展列して内外一般の鑑賞に供せられたのは寔に聖代の余響というべく上、殊に美術史研鑚に資する所だいなるべきは多くいうを要しまい。 本社ここに見る所ある、その精をとり華を抜きて、像の小佳作は概ねこれを網羅し本集を出すことを計りたるに幸いにその許可を得たるは大いに光栄とする所、また東洋文化の宣揚に一臂の労を吝まざらんとする微意に外ならない。 ○禅月大師 十六羅漢像 五代 御物 異様な相貌で肥痩のない線描、鉄線描というより少し太いが、まず銅線描である。肉体に若干の隈取りで 陰陽をつけてある。 ○李真 不空金剛像(七祖像の内) 唐 国宝 京都教王護国寺 細線描、絹衣に隈取りをつけてある。 ○呉道子 釈迦三尊 唐 京都 東福寺 国宝 肥痩描写 ○石恪 二祖調心雙 五代 正法寺 虎によりて眠る羅漢か ○ 不空三蔵像(摸本) 京都 高山寺 国宝 鉄線描、彩色、主体的描写、線で十分出てる。 ○劉俊 寒山拾得 明 博物館 天徳寺玉楽の寒捨はこの図の転化である。ただし描写は、線の細・太の区別ない。 ○周肪 聴琴図壱 唐 羅振玉蔵 人物細線、岩や樹木は太い線描写。 ○牧渓 豊干、 虎 宋 黒田長成侯蔵 周久の松図等は宋の写遠などの松を師としたものである。 ○伝李龍眠 阿羅漢図双幅 東京美術学校蔵 西金居士十六羅漢 元 原 邦造氏蔵 雪舟の面壁達磨は宋の閻次平の筆面壁達磨断擘図に因を成す。 (玉楽の参考)フェノロサの東京美術史綱188頁(また本文217ページ参照)織田信長が 京都を以って策源地と為したる時は狩野元信既に世におらず。因って其の子松栄と其の同輩とを用いたり。然れども中心的人物を欠きたり。元信の長子宗信は早世し祐雪及び季頼画風懐弱なり。聟養拙と玉楽と最も元信に近し。 多くの門人中には玄也、道安、定信、木村永光(山樂の父)最も名あり。然れども皆ただ元信の糟粕を嘗むるのみ。 (訳者有賀長雄 註 有賀氏 文学・法学博士) 正 信―――元 信――宗 信 │(承仙) │ │ │ ―雅樂助 │―松 栄―― (之信) │ │ │ │ ―聟養拙 ―永 徳―― ―光 信 │ │ ―宗 因 │―孝 信 │ │ ―休 白 ―言 信(孫七郎) 玉楽は雅楽助の子供か? 永徳門下―│―山 樂 │ ―友 松(海北) 鍛冶橋狩野 徳川幕府奥絵師四家の一 探幽が元和3年に鍛冶橋門外に屋敷を賜ったのに始まる。 探幽守信(延宝2・73歳)――探信守政(享保3・66才)――探船章信(享保13・73才)――探常守当(宝暦6・61歳)― │ │ 探船の弟 ―探雪守定(正徳4・60才) −探渕守直 ――探林守美(安永6・51才)――探牧守邦(天保3・71才)――探信守通(天保6・51才)――桧渕守守真(嘉永6・49才)― │ ―祐清邦信 ――探原守経(慶応2・38才)―――探美守貴(明治26・54才) 駿河台狩野 四家の一(寛文年間) 洞雲益信(元禄7)――洞春義信(享保4)――元山方信(宝暦5・67才)――洞春美信(寛政9・51才) 探幽の養子 ――洞白愛信(文政4・50才)――洞益春信(天保12)――洞白陳信(嘉永4)――洞春陽信(慶応元)― ――洞春秀信(明治17) 木挽町狩野 四家の一 尚信が寛永7年に竹川町に屋敷を賜りその後栄川典信が田沼氏から木挽町の屋敷をもらって移転した。 自適尚信(慶安3・44才)――養穆常信(正徳2・78才)――如川周信(享保13・69才)―― 季信の子、探幽弟 法印 │ ―隋川岑信(浜町狩野) │ ―隋川甫信(享保2) ――栄川古信(享保16・36才)――受川玄信(享保16・16才)――栄川典信(寛政2・61才)―― ――養川惟信(文化5・56才)――伊川栄信(文政11・54才)――晴川養春(弘化5・51才)―― │ │ ―白川恭信(安永9・27才) ―菫川忠信 │ ―晴雪光信 ――勝川正信(明治12・57才)――芳崖雅邦 中橋狩野 四家の一 安信から始まり家系の上では諸狩野の宗家である。 永徳州信――光信――貞信――永真安信(貞享2)――時信(延宝6)――永叔主信(享保9) ――永真憲信(享保16)――祐清英信(宝暦13)――永徳高信(寛政6)――永賢泰信(寛政10) ――祐清邦信(天保11)――永徳立信(明治24)――忠信 浜町狩野 狩野宗家の一つで浜町に屋敷を構えた。 隋川岑信――隋川甫信(延享2・50才)――常川幸信(明治7・54才)――閑川昆信(寛政4・46才) │ ―受川玄信(古信養子) ――融川寛信(文化12・38才)――舜川昭信(文化13)――友川助信(天保2弟)――梵忠信(明治4) 栄信5男 ――春川友信(明治45) 狩野派 ―永敬――永白――永良――永常――永俊――永岳 │ (文化13) 祖 狩野正信――元信――宗信( ―――――――――――――――――――――――― │ │ −季頼 (山樂=木村永光の子 −山樂(寛永12)――山雪――永納― │ 光願 秀吉に仕えた)│ 京狩野 −松栄(文禄元)――永徳(天正18)―――光信(慶応13)―――――――――――― │ │ │ −宗祐 −ー秀信――元秀 −孝信(元和4)――― 守信 鍛冶橋 │ │ │ 探幽 −玉樂 −ー徳信 −尚信 木挽町 │ │ −ー長信(慶応3) −安信 中橋 │ −秀家内膳――一渓重良 ―貞信――安信――――――――――― │ −興以(元和9)―――― 興霊(貞享2) 晩年紀伊徳川に │ 仕えた −興甫 紀州 │ −興也 水戸 │ −興之 尾州 御徒士町狩野 支家の一 三代目の休碩有信の時同地に屋敷を賜り5人扶持を与えられた。 休白長信――休白昌信(元禄元・68才)――友碩友信(享保6) │ │ −休円清信(元禄16・77才) −休山是信(休円?子) │ −玉燕季信(寛保3・61才)――休泊寿信 │ −玉栄在信(文化元)―― 養子 ――伯白満信(天保10・73才)――玉円永信(明治17・65才)――玉泉應信(明治40・26才) 京狩野 永徳門、木村家光の子光頼即ち山樂である。山樂は秀吉に仕えた。 山樂(寛永12)――山雪――永納――永敬(元禄)――永白――永良――永常―― 永俊(文化13)――永岳 狩野玉楽 小田原北条氏政の絵師という。(画家人名録) 名を宗祐 右隣と号す 玉楽作の寒拾図は、明の劉俊のものと背系が似てる 玉楽 狩野宗祐 宗祐の印と共に前嶋の印が押されているので、前嶋宗祐であろう。花鳥画の二三が伝わり、初期狩野派の画体である。画史では狩野玉樂と号する。元信の姪なる画家がいて、それがこの宗祐と同一人とされている。 東京美術博覧展で参考品として狩野玉樂の李白観渓の水墨画を陳列したことがある。 天擣院公の師 狩野秀水(求信と称す) 菅原洞斎は秀水の兄。洞斎の妻は谷文晁の妹、江藍女史。 三代義処公時代 狩野造酒(みき)定信(京の人秋田に来る) 平野等伯 名は益信、船遊斎と号す。江戸藩邸のお抱え絵師。義処公時代。八橋日吉神社に繪額あり。 小田野直武―――――――――直 林 武助・小武と称し別号蛙山又は麓蛙亭 字子有り、別号羽湯 │ 天保12年12/7 69歳 玉泉、鹿蛙亭、通称 │ 武助 安永9年5/1732歳 ―直 愛 ―――梅 女 和画・洋画・浮世絵を描く。 通称 三立 眼科医 明徳館漢学頭 安政頃の秋田の絵師 津村洞養 号を安陽斎 武田泉斎 明治30卒60歳 渡辺昌一 天保7年生まれ洞昌の子 武田栄球 元和8〜延宝3 秋田に独自の狩野を開いた祖(武田狩野) 武田栄草 ?秋田英銘録に記載無し 萬固山天徳寺建造物 本 堂 234坪5合 庫 裡 221坪 霊 廟 32坪3合 楼 門 21坪 山 門 6坪 土 蔵 14坪 納 屋 8坪 計536坪8合 萬固山天徳寺 草創(天徳寺起源) 本寺は上州御嶽永源寺 諸嶽山總持寺第二世峩山紹碩禅師五大弟子のうち通幻寂霊大和尚五世の孫一州正伊四世の孫、幻室伊蓬関山(天文15(1546)2月朔日遷化) 開基は上州佐竹義人建立 義人建立以後は黒石門徒、玄翁派。開山独堂。 大旦那は脇?木?左輔義繁 竹堂(義人号)以来其の菩提所となる。明堂代 義人夫人菩提のため建立したものであるという。 天徳寺殿甚山妙幸大孫定尼。義盛嫡女(寛政3年2月2日卒) 御霊堂は義隆の意を奉じて義処が漢文12年8月建立(秋田沿革史大成には11年5月とあり) 秋田天徳寺は六世鳳山善達慶長7年遷封の際供奉来秋。 寛永元年12月27日酉の刻、天徳寺炎上 此時小野崎吉内火中にててん心公(義重)位牌取り出し手足額等悉く焼け爛れた。 泉へ移建された”3年12月27日恒例の通夜に入る”と言うことからその以前建っていたことになる。 延宝4年辰12月8日酉刻 中間部屋より出火。本堂・祈願堂・僧堂・米蔵共無残焼失。梅津半右衛門忠宴、即時馳せつけ消火。同藤右衛門も同様。亥の下刻鎮火。御霊堂跡形なく江湖寮・風呂屋・心者寮・雑蔵2つ・大門・裏門・鎮守堂・能曲場の板塀残る。 信公天英公位牌、御繪師中村附兵衛持ち出した。 山門下の方半分程焼失。 天英公の御??且つ義処公御自筆紺紙金泥の金剛経此外重物無残焼失した。 義宣が鋭意新天地経営に努め、二代三代と藩改の確立するに及んで文化意識も漸く顕わすに至り、殺伐たる羽後の地にも造形美術をもって幾分彩られるようになったのである。 当時徳川将軍もはじめ為政者階級の嗜好に総じて最も勢力のあったのは狩野派の絵画であって、我藩もまた此の埓内にあったのです。 秋田三世義処公時代この12郡周囲を招き城の障房画を描いたと思われる。狩野造栖定信は承?頃久保田に来たが之が秋田絵画の澄陽を成したと思われる。 佐竹義宣公、矢留城移転(秋田城と称す)慶長9年8月28日 秋田入りは慶長7(1602)年9月17日土崎城入り。新秋田城は地を搗くこと8丈、東西64歩南北120歩、東南に正門、東北に搦手の門 義処、義長合作 義林――紺地金泥八句陀羅尼 (義苗のこと) 紺紙金泥地蔵経 義処筆? 狩野洞雲の地?? ???あり 紺地金泥八句陀羅尼 貞明院筆(夫人) 義敦公???? 法華経 義堅筆 詠集壱物 義和公筆 貞妙院殿御一周忌 上余に当寺38・39世但し文なり 紺紙金泥法華経 義?公筆 聖観音 念持佛 壱躯 ○竹中筑後守、寛永年中秋田藩託幽されたきりスト信奉者大友宗隣と同輩なり ○寛永11年甲戌2月22日江戸に於いて竹中筑後守殿父子御預かり、3月9日久保田元御下也。 ○寛永15年戌寅 8月29日御預け人竹中筑後守殿嫡子死去、江戸表へ???9月20日久保田大悲寺に葬る。 ○寛永16年巳卯7月28日竹中筑後守殿卒、後江戸御使園田六郎衛門殿下り検死(安藤和風秋田の工と人) 二代義隆公時代 ○寛文11年五月天徳寺内へ霊屋を新造する。 ○寛文11年八月2千石以上の侍は其の御霊屋に石燈篭を献上す。 ○延宝二年12月天徳寺焼失 ○元禄5年3月28日寺町一番院境内へ大八幡神社建立。 ○元禄13年7月20日八橋帰命寺に徳川家の霊屋を造る。寺領50石を与える。 義処公、襲禄の翌年延宝2年8月24日霊元天皇?上皇女院に男鹿嶋の画をかかしめた屏風を献上。狩野永球法橋画。 ○元禄11年良超北楊(修験とも言われている)。行者堂を保戸野に建てた。 良超子北楊享保10乙巳年正月遷化。松山本念寺に葬る。 能代住?永僧大光院桂葉が大頭として次ぐ。 鍔工 初代重吉 伝兵衛と称し本姓鈴木。庄内の産。18歳江戸に出て正阿弥吉長に就き、後苗字免許。延宝元年秋田に来り。船尾氏に仕え同三年鍔師として義処公に召し出され重代名刀(君萬歳友成を初め指し料大小数品の栫をなし享保8年まで49年動続。 二代重高は傅円と称し養子である。父の代より宝暦3年まで56年勤仕。3代重常は初名左源太、後に傅七と改め、重高の養子である。元文5年江戸の土屋安親(東面?)の門に入り大いに技を磨き義常・義眞二公の指し料を造って褒美をうけた。 寛保3年秋田へ来て父傅円の跡役相続をし安永6年永永近進並びに召し立てられた。田代重央は嘉吉と称し重常の子である。安永二年将軍家の鍔師伊藤源次郎正方について修行した。また通常の動功により永々近進並びに召し立てられた。 350年記念祭 文化資料関係 風俗生活様式の文献資料 深見氏蔵、秋田藩風俗秀本のものか、伝一物 佐竹氏歴代の肖像 夫人像 義処写経 (納經) 山村 旭嶺 赤星 藍城 本墓 白馬寺 那珂 碧岸 根本 通明 石田 無得 益戸 滄沙 村瀬 拷亭 西宮 末成 大窪 詩佛 小川 歓斎 金 菊斎 小室怡二斎 町田 忠治 佐藤 箔斎 田中 隆三 那珂 淇水 大久保鉄作 吉川 五明 狩野 旭峯 神沢 季壺 阿部 梵随 天徳寺 秋田卯代 菅原 洞斎 平沢喜三次 狩野 秀水 求信 秋成社の印(高田氏蔵) 義和公印譜(根岸君) 明徳館の祭価 秋田儒学の中興者として 中山 菁莪(従五位追贈)(菁莪雑言。論孟?蔵) 能谷 洞斎 金 岳陽 野上 陣令 平本謹斎(祭価なくしてならぬので) 落合 東提(君道論・臣道論(国文を以ってす)) 柿岡 林宗 賀藤 月蓮 黒澤 四如 義敦(八代・号曙山) 義和公 直武 田代忠国(円綱) 荻澤晴孝 勝章 菅原寅吉 憲承 石塚善兵衛 泉村図5冊 小貫太郎氏 (秋田鍔) 三浦悦郎氏 (正阿彌の鍔) 梅津末右衛門憲忠(兄)――忠国 │ 利忠 梅津良馬正景(弟) 佃 千石(養軒) 平元梅隣 明治以前 1.佐竹候の社寺等へ寄進・施入の美術品陳列 1.秋田藩出身、関係者の著述、美術品陳列 明治以降現代 1.秋田出身の名士・書籍その他陳列 1.秋田出身の芸術家の作品の陳列 佐竹候累代の肖像 12 佐竹候累代の夫人像 累代藩主の絵画 写経類 調度品(文台・硯箱・その他・かもじ等) 舎利塔 源通院(義敦候)夫人貞明院寄進 平田篤胤―版木その他 皇道大意 安藤昌益― 栗田定之丞―肖像 天林院公―――??? 赤津塾―――孔子像 日吉神社――本居信長像 真澄遊覧記ー辻氏 黒甜鎖彦 匹田松滄 天徳寺出品 衣冠装束 壱具 佐竹義尭公用 義尭公は親族磐城相馬公より入って佐竹家を継いだ秋田藩最終の藩主。 明治維新勤皇の名君。公爵。明治17年10月23日薨ず。年60歳(顕徳院) 火浣布 打敷 諒鏡院 寄進 火浣布は火に焼けない布として古来珍重されたものである。 諒鏡院は佐竹義尭公夫人。 文台・硯箱・料紙筥 光源院用 江戸時代漆工芸の粋を極めたものである。 光源院、佐竹義明公夫人。 香盒 江戸時代の作 駕籠 憲諒院 乗用 憲諒院は佐竹義睦公夫人。入輿の際乗用したものと伝えられる。 厨子入り宝塔(舎利塔) 貞明院施入 宝塔銀製、台座・銅鍍金 厨子木製・白檀塗り 奉献 源通院殿泰岳良清大居士 尊前 寛政元年巳酉6月 従4位下 土佐守持従 藤原豊雍姉 貞明院 賀子 の銘あり。夫君佐竹義敦公菩提のため作らしめたもので、精巧なものである。 厨子入り聖観音像 佐竹公念持佛 木彫・漆箔、肉身・粉溜、條帛、裳等の金箔の上に模様を蒔絵したもので、江戸時代 京佛師の手になった上乗作である。 厨子の扉には二天を画き、極彩色を施し蒔絵の文様を配した華麗なものである。 佐竹藩主肖像 義隆公以下。 佐竹義堅 像 義隆公の孫。秋田五世義峰公の継ぎとなったが、義峰公に先立ちて薨ず。 佐竹義隆公夫人像 書跡 法華経(紺紙金泥書)八軸 佐竹義處 書 義處公は累代中最も多く書写納経された人である。父義隆公菩提の為、書写納経。 法華経 佐竹義處・義長合作 義處・義長は兄弟で父母菩提のために写経納経したものである。 地蔵経(紺紙金泥)一巻 佐竹義處公 書 扉絵地蔵菩薩は狩野洞雲画と伝えられるものである。 八句陀羅尼経(紺紙金泥) 佐竹義林書 義苗の初名。世子(よつぎ)なりしが父義處公に先立ち薨ず。此の経は母光聚院の 為に納経したものである。 法華経(紺紙金泥) 佐竹義長 書 法華経 佐竹義堅 書 八句陀羅尼経 貞明院夫人 書 夫君義敦公菩提の為め書写納経。 詠集巻物 佐竹義和 書 母貞明院追善のの為に書かれたものである。 巻末に天徳寺38・39世の偈文あり。 隠元・木庵 即非法語 佐竹義處公施入 隠元は明末の人。わが国黄檗宗の開祖。木庵はその二世。即非また隠元と同時に 来朝した黄檗の名僧である。 東皐心越禅師書 明末の人。来朝して水戸の義公、徳川光圀の師となった当時の傑僧である。 不立文字(一幅) 佐竹義和 書 義處公は勤皇の志深く延宝2年8月24日、霊元天皇と上皇女院に男鹿島の画を かかしめた屏風を献上した。之は狩野永球法橋にかかしめたものである。 絵画 観世音菩薩像 佐竹義和 筆 母夫人追善の為に画かれたものである。 松竹梅図 佐竹義和 筆 義和公は泰峩と号し、狩野秀水・求信に絵を学んだが、藩校(黌)を起し殖産を図り 秋田藩中興の名君。法謚天樹院を以って称されている。 山水図 佐竹義苗 筆 佃 養軒・木村松軒(仁斎の門人)柏悦・梅隣は略付を同じくす。 太田翠陰(おおたすいいん) 太田翠陰、名は重厚、後に成章と改める。彦八郎、正五郎、治太夫とも称した。最後に丹下、あだ名は子達? 延宝四年八月信州上田に生まれる。上田城主、仙石越前の守の武頭重成の次男。19歳江戸に出て林信篤門、元 禄16年本藩に予せられて義處公に仕う。禄200石、宝暦4年3月16日没。79歳。著書「群玉宝鑑」「太田成章覚書 」等。(漢学者) 木村松軒(きむらしょうけん) 木村立、字信甫と号す。後、凋堂、望雲散人、睡隠子の各号なり。万治元年生まれ。義峰公の師傳(しふ)。 享保五年命を奉じて佐竹氏系譜を選定し、又秋田城記を著わせり。享保13年11月28日病没。71歳。 平元梅隣(ひらもとばいりん) 平元仲弼、通称小助。長兵衛正芳の次男。万治3年5月8日生。兄小一郎正久と共に佃養軒に学び、20歳京師に 上り侍医端仙院法印、法条保安に医術を修法学は伊藤仁斎に、歌は中院通茂郷に俳諧は梅津其雫の門に学ぶ。 山城八幡に住し長崎に学び、元禄7年母老いたるの故をもって秋田に帰省。医を業とす。母の喪に服し元禄10年 再び京都に往く。正徳4年兄正久の為に帰省。死後甥正信托孤の任を全うする為、一生処士にて終わる。寛保3 年6月「天人道弁」を草す。8月17日歿。年84歳。久保田妙覚寺に葬る。 著書に「論孟私説」「読詩私説」「和歌私説」「田家問答」「田家集」「徒然草私説」「梅林百詠」その他。金 蘭斎とは結縁にして親交あり。 金 蘭斎(こんらんさい) 金徳隣。字は江長、後三无、通称忠佐、蘭斎と号す。また臥雲、叟洛山逸民の前号あり。 父を三宝と言い母は佐藤氏。承応3年生まれ。祖父太兵衛。由利郡金浦村の人。元和8年本荘に移り男三宝を生 んだ。その妻幼児を擾いて同町牧堂某に再稼。善右ヱ門を生む。三宝長じて牧堂の実子ならざるを知って、家を 出て秋田にいたり小鴨一庵に医を学び、後その義子となり家を継ぐ。藩の求宅渋?内膳の薦めによって二百石を 与えられた。三宝没す。時に徳隣八歳、内膳これを哀れみ大社寺(後の全良寺)に入れて書を読ました。十七歳 忽然として志を立て京に遊学。伊勢梅軒に兄事し西山秀斎に学び又、仁斎に教えを受けた。延宝7年平元小助京 に来たり。友情滋々濃やかであった。同9年牧堂善左衛門来られて徳隣を伴い秋田に帰る。時に28歳。玄固と改 めて医を要としたが、5年にして医を罷め、金氏に復して交により敷至町に假居。荘子を好み講演、独特の妙旨 相交なるに諧虐をもってよく人のしんを解く。強者恍惚として甞って倦(う)むる事を知らず。又詩文、和歌を 能くし筆跡に巧みなり。享保16年12月24日御幸町の寓居に没す。79歳。京都五條の本覚寺に葬る。碑文は伊藤東 涯「死埋花下骨亦香」と書いた。彼の奇行は「近世畸人伝」にある。平元幾秋はその甥に当たる。(幾秋・正信 ・才蔵という) 安政5年 御絵師 津村洞養 武田泉斎 渡辺昌一 武田栄球 武田栄草 俵屋火事 明治十九年四月三十日から五月一日 (秋田市川反四丁目俵屋より出火) 四月三十日午後十一時十分頃秋田市川反四丁目田原吉之助・亀谷東吉家屋間 の尉子立て板より発火。暴風の中にて延焼中さらに中亀の丁上丁岡本堅長屋より出火。五月一日午前七時鎮火す 。 消失戸数 3,554戸 秋田市街 3,296戸 八橋地区 79戸 寺内地区 61戸 内 寺院 61ヶ寺 神社 1社 死者 男 11名 女 6名 詩家 明徳館設立が境で 前期 u戸滄洲 吉田夢鶴(謙斎)太田翠陰 平井樗堂 匹田柳塘 谷田部?斎 人見蕉雨 七家 後記 匹田松塘 介川録堂 根岸鶴亭 平沢雪斎 賀藤月蓬 後藤於所 武藤養斎 大縄念斎(織衛) 本念寺 元和2年良善の開基 元禄頃の修験、城下寺町に住し「男鹿記詠」の詩のある長雄院北揚の墓あり 寛政頃飯塚盛瓶の墓、又近くに俳匠 会田素山のもあり。 太平山権現 司祭 優姿塞 太平山長福寺大寿院北雲 箕山堂隠士北揚(享保記) 棟札 寛保元年・延享2年・宝暦2年・同12年・安永・寛政等 佐竹 鉄砲注文始め 元和三年正月吉日秋田へ帰るときに秀忠より?の鉄砲を賜った」17日に江戸を出処 4月4日鉄砲師の國友というものが江州より来て30匁筒三挺六匁筒2百挺製造せしめた。 刀鍛治 出羽秋田住 正忠造 元治二年二月日 八橋住 秋元氏 五菩薩堂(八橋・今はなし) 米を菩薩ということは 種 文殊 苗 地蔵 稲 虚空蔵 穂 普賢 飯 観音 能代仏教青年会公演草稿 古典美術を語ることは今日斯うした方面の専門研究家や学者によって殆ど尽くされたいる観がありますので浅学の而も一彫刻家に過ぎない私の話しなどは極めて通俗なものである。また話し下手ですから決して一般に興味をそそるといったものではないのであります。 本日拝観した当地の仏教諸像を中心にはなしを進めたいと存じます。 大体美術は民族の如何に拘わらず多くは宗教や信仰によって創生発展しまた近代人は偶像を排斥するのが定説でありますが、美術がこの偶像崇拝によって育まれ保護伝世されたことは私が申すまでもないことであり、我が国の美術も亦それに他ならぬものであります。 而も我が国の古典美術が世界に誇るべき価値を有するにも拘わらず一般の人々の関心が極めて低調であり稍もすれば古典美術を見ることは老人の懐古趣味や道楽のように思われたり、甚だしきは美術家でさえも何か縁の遠いものを見ているかのように思っている者ものがありますが、自己の作品が創造でありその伝統外にあるごとく誤認しているからでありましょう。 先人の尊い業績の蓄積が古典でありそれが規範となって後人を導いているのであって伝統は人類の歴史の続く限り無限に伸展し今日の自由美術も亦いつかはこの中に納まることと思われるのであります。 古典美術は決して過去の幻影ではなく新しい芸術創造の基盤をなすものであることがこれによって解ることと思うのであります。 吾々が正倉院の御物を拝観して千二百年前のものに新鮮味を感じその気迫に於いて現存吾々が芸術上に要求するものと通じるもの、あるいはその古典精神が現代に至るまで尚呼吸していることに他ならぬことであり美しきもの正しきものは恒に永遠性をもってそれが時代の変転極まりない世相の中にも巍然として光輝を放っていることが即ちこれを立証するものであります。 人類の至宝として世界に誇り得た法隆寺金堂の壁画焼失以来俄然文化財に対する関心を高め当局は文化財保護法を制定施行され各地方においても漸く古典美術その他の文化財の保護保存のことに当たられるようになったことは詢に悦ぶべきことであって本日能代市の仏教青年会や在住画家の方々がこうした催しをされたことは感激に堪えない次第であります。 日本彫刻美術は上代に埴輪彫刻がありますが真に彫刻として観られるのは言うまでもなく仏教の渡来とともに奥起し古仏教諸尊の彫刻像であります。 それが各時代時代の特徴ある発展をして新しい生命を湛えているのであって、このように一国一民族に彫刻美術の長い発展を持っていることは世界にあまり類がなくそこに我が国美術の特徴と興味があるわけであります。 一口に仏像といっても、仏・菩薩・明王・諸天の四種類に大別してみるのが真実ありますが今は一般の呼称にならって仏像ということにいたします。 それでは本日拝観しました当市の仏像等について申し上げます。江戸時代の彫刻仏像は日本の美術史からは寧ろ問題にされないのでありますがしかし全国の寺院でも在家でも最も多いのはこの時代の仏像で、仔細に点検すると彫刻本来の意義生命は没却されてはいるが技巧の細微はなかなか捨て難いものがあります。 そうした細密な技巧を誇りとしたものの代表的なものに今は戦災で焼けたが東京芝の増上寺の徳川将軍の霊廟や現存の日光廟等があります。建築彫刻としてすばらしい発展をしたがその一つ一つを観ては感心させられる。しかし細密な技巧を奔するの余りその本質を忘れ建築との調和美を欠き煩雑の感をまぬがれ難い。 これらの建築彫刻に勝るとも劣らないものに秋田市千秋公園内に現存する秋田八幡神社や弥高神社(これは元八幡神社で創建が同年代であります)その奥殿の外廊のちょうこくがあります。之は五彩絢爛たるものではなく皆白木彫りでその白木の唐様獅子など全国に数例のない陰陽の区別を現して何でもかんでも様式一点張りなこの時代には実に破天荒な試みをしたものでその工匠のたくましい非凡な製作意欲が窺われるのであります。 秋田県内にはこれ以上の建築彫刻はないように思われます。 秋田に入った江戸時代の仏像を見ると京都系のものが多くまた江戸出来もあり海岸伝えに加賀ものと称する金沢や新潟方面より請来されたものと地元秋田出来のものとが区別できます。出来は京都が勝れ江戸がこれに次ぎ他はいけない。 仏教伝来前の秋田のことは私共には解らないが奈良朝の文化が希薄ではあるが浸潤していたことは秋田上の構築や僅少ではあるが遺物に徴して明らかなようであります。平鹿栄村正傅寺の観音像などがそれであり、下って藤原時代になれば 新しくたてられる能代の寺院とその仏像は如何なる計画によって再現するであろうか。私等美術家の希望からすれば此の際思い切って藤原時代若しくはそれ以前に範をとって現在のように美術的に一顧の価値のない仏像をゴチャゴチャと造顕するよりは法隆寺の金堂とか薬師寺の詣堂のように大きな本尊と脇侍位にとどめ又は宇治平等院鳳凰堂や京都日野の法界寺のように本尊ひとつ丈六とまで行かなくともせめて半丈六像位のものとし内部の装飾即ち号天井とか壁面或いは襖等に高尚優美な装飾をしたいものであります。なにも京都とか東京とか中央の芸術家に求めるよりもその土地の美術家を動員して大いに流行をはかっていただきたいと思います。そして秋田独自の宗教と美術の交流文化を建設したいものであります。 私の生まれた町の正月 佐々木 素雲 正月は子供には楽しい世界であろうが大人にはそれほどでもないと思う。ご命題に副うかいかがか。 年少赤沼の生家を出て三転四遷した私は正月の行事などには余り拘わらないこととてとりたて、書くほどのこともないが幼少年頃の記憶を辿ればそれは楽しいことであったと思う。年賀の客から「ヤセマ」と称して金品を戴いて幼心に嬉かったし又小学一・二年坊主の頃は大きくなったとか学校ができるとか「モヘ」しょわされて喜んだこともあったようだ。 何処の家でも小正月に飾る「マユダマ」は柳の枝に付けて梨の実のように丸いが私の一家のものは餅をちぎってペタペタとつけ白い花が咲いたようの美しい「稲穂マユダマ」なので子供同士の自慢の一つであった。 何時の頃か市内は勿論近郷近在に悪疫が流行し隣近続々と倒れた際に私の先祖が神仏に誓願して厄難を免れたという。その誓いとは小正月の15日夜半12時に食事をして翌16日のお昼まで乳児は別として皆一切の食物を口にしない。水や煙草も許されない。16日は札打ちで本念寺が三番の札所なので巡礼者の続く行列を見物しながら露天から蜜柑や飴玉を買い食いする子供をみて誓いを忘れて店に駆け込み、兄や姉に引き戻されて泣きわめいたものだったが、今もこの誓いは守られている筈である。 待たれたものは17日の三吉さんの梵天奉納祭だがその実況は今も変わりがなく、ただその頃は血の雨をふらした大喧嘩が景物だった。――原稿一部紛失―― ならぬ変に」白っぽい。これはとためらっているとKさんが「元日だ、田舎のトソでしょう。満更でもないですョ」「そうかナ―」出来そこないのフクロでもなさそうだ。変だ変だと手をたたいたら来た娘に「姉さんこの酒はトソかね」「本との酒コであんす。ウソの酒コで」ねゃがす」娘は変な顔をして奥の法へ叫んだものだ。「オガこの酒コ、うそでねゃホントの酒コだネサ」「アアそだエ」と出てきたオカが「オヤマンツ呆れた。オド酒コ燗するときユセンコとっくりきゃしたナ知らねャでよこしたべ、そばコ熱くしたツヨコ混ざったなべ、大不調法したであんす」とんだ田舎トソであった。その弥六そばやが今ありやなしや。 江戸時代以前秋田の美術については詳しいことは判らないが、わずかに遺る諸社寺の襲蔵物は主として信仰対象として将来されたものでこれが果たして秋田の美術lの胎動として語り得るかどうかは疑問である。 慶長7年佐竹義信公が遷封以来鋭意新領地の経営に努め二世義隆公三世義処公相次いで藩治の確立するに及んで文化意識が漸く顕るに至り羽陰秋田の地にも造形美術を以って幾分光彩を添えるようになったのである。 当時徳川将軍をはじめ為政者の嗜好に投じて勢力のあったのは絵画に於いては狩野派であるが我が秋田藩も其の埒外ではなかったのである。 色々の出逢 昭和38年2月16日秋田魁新報に依頼されての原稿(平田篤胤の写真を添えて) 雨ばれの午後人夫のあやつる小舟にのって私は堀江の小島に上がった。水面には多数の原木が浮かんでいる。その一本に乗った仲仕の手かぎと足の操作でクルクルまわる木材を見ながら社寺建築の名匠、名古屋の加納茂一氏から材質の良否について説明を聞く。それは帝室林野局熱田支局の白鳥貯木場でのことで昭和10年の秋であった。 曹洞宗大本山總持寺奉安の後醍醐天皇御等身製作の用材で木曾御料林の檜材の払い下げを受けたからである。 貯木10年、年輪390を数える樹齢の長さ16尺、直径3尺6寸の巨材、、熱田神宮造営のとき巨大のゆえに除外されたものといわれる。 御料林の檜は伊勢の内宮そ外宮用材は何の山、他の神宮は何の山と産出の山が限定されて漫りに斧鉞を加えることは禁止されているそうである。 製作にあたり柴野大徳寺秘蔵の国宝後醍醐天皇御絵像や吉野神宮の御宸影また妙心寺の花園法皇の御木造等特に拝観できたのは幸甚であった。服飾は明治神宮宝物殿の明治天皇ご着用の黄櫨染め御袍等を拝観、吾を忘れてスケッチした。そのときトンと肩をたたかれて面を上げるとガラスに顔をつけては危ないですヨと守衛の注意に実は斯ういう訳だと話して続けていた。と係官であろう守衛氏とともに寄ってきて幸い今日は参観者がないからとて態々錠前をはずし硝子戸をあけてみせられた。しかも袍や袖などの寸法また今は古びて色あせてはいるが新しいときは黎明の太陽がほのぼのと昇るときの神々しく美しい色であるなどといろいろ教えられ、実にその親切に自ら頭の下がる思いであった。 斯うして御像は12年4月完成。新しく造営の霊殿に奉安され600年際は厳粛盛大に挙行されたことである。 檜材は大割した反面の6尺のものが余ったが工房の一隅に横たえアレコレと製作課題を想像しては楽しんでいた。料材の手元にあることは嬉しいものだ。 いつとはなしに数年を経過したが時の世情に刺激されたのであろう平田篤胤の像を作りたくたまらなくなって、その構想ということになり伝記や著書など読み耽り、容姿服装などの構想等にも手間取った。 あくる日九段の遊就館で武者の折烏帽子が正月漫才のものや相撲行事のものなどと一見似て非なることに気づき写しはじめた。突然コラッ、驚いて振り返ると守衛が「誰の許可をえたか・・」陳弁大いに努めたが事務室へ連行された。少低頭許可を請うたが頑として応じない。帰宅して思い出したのは先年總持寺から拝刻式に受領した狩衣を調製した麹町番町の宮内省御用の装束舗である。そこで種々見ることができてついに18年の12月私の夢が実現した。この等身の像である。 しかるに空襲が激しくなって体内の血潮が逆流して頭髪が逆立ちするような日が続いて身近を考えなければいけないことが多くなった。意を決して大本営恤兵部に作品献納を申し入れて奇特の至りと早速受理されたが秋田部隊へとの希望は入れられずそれなら直接秋田の方へというのだ。翌年1月帰省し知人の斡旋で今度は等身の裸婦像は衛成病院、總高さ3尺の狛犬一対は護国神社、篤胤像は弥高神社へと献納または寄進のことを県当局に申し入れ時の知事が承諾されて輸送その他のことで鉄道関係官庁へ手続きしてくれた。東京では容易に求められない梱包材料を準備して帰京し荷造りを急いで指定された飯田町駅へ運搬輸送許可書を提出したが「この非常の際こんな贅沢なものが遅れるかイ、大臣でも総裁でも絶対にいけない。べらぼう目。周囲を見ろイ」と怒鳴られた。成る程疎開非難のための荷物が山と積まれている現状をを見ては暗然とせざるを得ない。あきらめかねて2.3クエスチョン方手を尽くしたがやせて吹けば飛ぶよなその係りの男に残念ながらついつい押し切られてしまった。 終戦の年の5月25日東京最後の大空襲に工房とともに荷造りしたまま灰燼してしまったのである。 想えば一個の檜材が私の過去の小さな歩みに明暗得失の両面の世相人情を奏で見せられたことに今更ながら感慨無量のものがある。 おもえば私の過去の小さな歩みに一個の彫材が霊魂あるかのように醸し出した明暗得失の両面世相人情を奏でて見せられたことに今更ながら感慨無量のものがある。(2003年11月7日新幹線にて入力完了) 昭和28年7月13日から15日の男鹿拝観記 今回は数々のご配慮厚く御礼申しあげます。真山社務所で拝見した弁財天曼荼羅?の正体をつかみたいと思い乏しい書架をかき回し記憶を喚起してもついつい解らず、長々と失礼いたしました。 拝観したものの2,3について愚見を申し上げます。 ○漢の武帝は模写と承りましたが後で見た関羽・孔明などとは比較にならぬ立派な描写、作画時代を松圃先生から聴きえなかったことが残念です。 王母と唐王でないかととのお話でしたが西王母の仙桃を盗んで食い仙となった東方朔が武帝の代に現れて寵され、また武帝が元狩5年に仙鹿を得て放たれたとあり、それに徐福が白鹿車にのるなどとあったり鹿や蝙蝠が祥瑞としてあつかわれ秦の始皇・漢の武帝が求仙に志て東海沿岸を探検したことがあるといい、それが今の山東省青島付近とあるからだいぶ男鹿に接近したわけで、勿論支那列仙伝は垂涎三千丈でしょうが男鹿の武帝説は面白い。蘇武や武帝の将来とう男鹿は神秘の島である…・と請松たる四方の海を眺めて思ったことです。 ○鎮子の狛犬(石造り)は室町でよいでしょう。相貌の面白さは類が少ない。模刻が欲しいものです。何ともいえない妙味がある。 ○五社堂 ○長楽寺 ○安全寺 薬師如来、木彫座像、室町時代の作。同行の諸氏は疑問視していたが、一寸解りにくかったかも知れない。修理の際玉眼嵌入で面相若干原型を壊しているし、また右手の衣紋に補修がある。相対的に雄勁な彫技。木地に表れている生反り(かんな)仕上げも美しく寄せ木の法もこの時代の特徴がよく出ている。側面から見れば光背(破損)蓮台は同時代で他の台は後補である。京都でなく奈良か鎌倉佛師の作と思う。 北浦の常東院であったか、聖衆来迎図は見ましたが補筆のことを大分問題にしていたが時代と…・した品で出来はよくないが鎌倉末か南北朝は下るまいと思う。万体地蔵は先ず中尊を三尺位に造顕すべきでしょう。その上での万体佛ではないでしょうか。 恩荷以来の神秘の扉を少しばかりのぞき見した感じで嬉しく、重ねて厚く御礼申し上げます。 天堂先生 平泉・藤原三代の遺業見学報告文化財保護委員 佐々木素雲 昭和35年9月16日 曇り 市文化財保護委員 豊沢武氏 同委員 金子隆治氏と同行 ◎無量光院後 平泉の駅より古風な乗り合い馬車にのって藤原三代目秀衝が山城宇治の平等院を模して建造したといわれる無量光院後を見る。 今は一宇の観るなくわずかに礎石をのこして伝えられる梵字が池も黄金色の穂波がゆらぐ田圃である。 当地の文化財保護委員会が立てた大油絵の復元図と解説板によって、ここは正殿、翼廊、或いは少し離れて三十の塔など礎石を辿りつつ、往時の廟堂の壮観をしのぶよりなかったが、しかし観光の、研究のためこのゆきとどいた施設には感心もしかつ学ぶべきものがあった。 ◎毛越寺 曇りより降り始めた空を気にしながら農家間近の田の畦にとぐろを巻く妖しくも美しい色鮮やかな小蛇にギョッとしながら柳の御所跡、伽羅の御所跡などを探り秀衝館の土塁を望みつつ毛越寺へ急ぐ。門前近くついに降り出した雨。傘を持たない私は心細かったが山門を入ると墨黒々と毛越寺と書いた番傘を貸してくれた女性ガイドさん、ふと見るとまだ7、8本の傘がある。かかるときの準備であろう。 低いが通る優しい声のそのガイドさんが説明するのを聞きながら南大門後から大泉が池の畔に立って,その景観の意外に広大なのに感嘆した。しかも水清くあたりは汚れていない。ここにも復元図の大油絵が立ててあるまことに便宜である。 二代基衝が、摂関公卿の寝殿造りの邸第に憧れて模倣、贅を尽くして建てたという。流線なだらかに山容を作り変えたという松村欝叢としてあらわしたる松松たるその山を背にして金堂(円隆寺)講堂、経蔵また山腹に朱塗りの五重塔が立ちまことに優美壮観、或いは又大泉の中の島には対岸を結ぶ丹塗り欄干の太鼓橋が懸けられ五彩映ゆる龍頭鷁首の舟を浮かべ水干の美がこれを繋ぎ棹さし管弦を楽しみ隆々たる無骨の五体を冠袍に包んで青花の楽人浄土のあるがごとく恍惚とした忘我の境に酔うたことであろう。 さすがの同と伽藍も今、常行堂を残して他は悉く礎石のみ。「夏草や 兵どもが 夢の跡」俳聖芭蕉ならずとも感慨無量のものである。 新しい本坊は敬遠して宝庫に展示された遺品をみる。奥州藤原様式の小仏像、鎌倉末葉と思われる来迎三尊佛の絵像など数十点の什物を光線のうち堪能した。 雨が霽れたが雫にぬれた叢を踏んで大泉が池を一周、礎石をたどっては、あれこれと建造堂塔美術の想像を呈して、なかなか去り難い思いをしたが池を背景に記念撮影して帰路につく。 それにしても謝礼を求めぬガイドの親切さに好感がもたれたが寺の方針であろうか。 9月17日晴れ 朝二番の発車、私が寝坊したばかりに大慌て、その汽車待てと今様弥次喜多ばりに1分待たしてようやくまにあった。 中尊寺 平泉駅からハイヤーで改修中の道路を走る。山の入り口で弁慶の墓に頭を下げ、巨杉の並木道を登り途中眼下に展開する衣川の流域を眺めやった。 かねてか一般並に金網をすかして拝観しただけではせっかく雷山下我々の使命が無いと三人で協談一旦出た本坊に再び引き返して、刺を通じ、金色堂内陣拝観を請うた。座敷を通されて住職不在で執事長と会談。何分腐朽が甚だしく万一を慮りなるべく振動を与えぬようにしている。ものがももだけに解体修理が出来ないので専門家等の手でそのままアクリル樹脂を注入して固定化する云々と言う。事情を聞いて辞退したが、せめて側面の扉を開いて拝観の申し込みが容れられたことは幸いであった。 執事長から平泉文化、平泉等の冊子や中尊寺の絵はがきを送られたがこちらも祀堂料として金一封を呈した。 案内を命じられた青年僧に導かれて金網を透かさず直に見る堂内および諸仏像は想像以上によく、しかし損傷もはな甚だしいものがあった。 檜の良材を製板組み寄せ丸く削って布張りし漆を塗って施行したという円柱など螺鈿は剥離して一分余りの厚漆下地が所々に残っているなど相当荒れている。 佛像群も中央壇と脇壇とに年代差による技巧差がよく解り中尊寺式の一様式があることを発見して長年の宿望を果し得たことは、大収穫で有難いことであった。 次いで経蔵をみる。納経の一部を展示して、現存の大部分は他に収蔵されいまは棚・唐櫃などの遺構だけである。 本尊の文殊菩薩他は新らしい凡作であるが八角須弥壇は少しの損傷こそあれ全体の形といい金具、螺鈿文様、剥離の絵様に至るまでただただその華麗さに驚嘆した さらに鍵を持った青年僧は讃衡蔵(宝庫)に案内してくれる。 秀衡の念持佛と伝える「人肌の大日」として有名な、一山の秘仏、一字金輪像は別室に秘蔵されているが、これ又開扉、心ゆくまで拝観することができた、私には再会の尊像である。 像容のポテり方が造顕そのままでよく当時をあまりへだてぬ年代に玉眼が創始されたので生き身のようにするために玉眼を嵌入し再彩色されたためではなかったろうかと一番の疑問をもって拝観した。 讃衡蔵には藤原初期の金剛界の大日如来像がある。漆箔が剥落し素地を露出しているが彫技に冗漫なものがなく一字金輪より優れていると思う。 又弥陀・薬師二體の三巨像は佛師の技風が類型的に陥った時代の作の故か堂々としているが、品位に乏しい、吾妻鏡に伝えられることがこの三尊のいずれかとしたらそれは誇張ではなかろうかと思う。 等身の千手観音立像は修理の拙さから手と肩のつけねが扁平にみえるのは気になることである。 光背佛で藤原期の特色のある小佛像群に心ひかれ木彫りの技巧きわまる天蓋には魅せられた。 三衝の遺骸をおさめられたという木棺がある用材は桧とのこと、内外漆箔のいわゆる金棺で、底面には長方形又はまるい小孔が二個宛あけてある。 金色堂を立てた初代清衡は堂の内外に金箔を押し塗りが全て善美を盡し燦然たる極楽浄土を再現したような愉悦に陶酔し一面豪奢と産金の豊富を大いに誇示したことと思う、そのためかどうか知らないが学者や識者はそれを説き語っても金棺の効用、真相を伝えない憾がある。 桧製の箱に物品をいれ密閉したとき必らずといってよい位、樹脂が吹き出して収容物品を凝結するのである、漆を塗れば予め防がれるし更に金属性の箔を押せば樹脂は浸透しない、孔は空気の流通をよくする気孔で之又凝結を防ぐと同時に人体の場合醤水が滴たやすることなく流出する。 三衝の遺骸はそのための措置として漆箔にしたろうが高燥な土地と相俟って期せずして金棺の効果がミイラ化したことと思う。 吾々が桧を用材として彫刻するときまたは桧製の箱に物体をいれて保存し往々この現象をみることがあるが、必らず箱に気孔をあけるのもそのためであり、これがやに止め法でもある。 さて貴重な文化財を保護保存の為めにここでは近年耐震耐火の讃衡蔵を建て、堂塔各坊から什物を収蔵しているが金色堂のみは鎌倉時代に覆堂を建ててはあるがこれは風説を防ぐに過ぎずまた佛像群は収蔵もされずそのままである。 そのために今は堂後に溝渠鉄管を埋設し有事の際、菴蓋をとり簡単な操作によって鉄管の無数の小孔より水が噴出して堂の高さの水壁となり又前方数箇所からホースをもって注水防火するよう設備されている。 但し耐震設備はなされていないようであった。 月桂寺阿弥陀如来考察 昭和31年2月29日 先日市の文化財保護委員と共に八橋・寺内をまわった際はじめた拝観したが格子の扉をあけて一見、その偉容に打たれた。しかし時間が制限されて十分観察することが出来なかったが気に懸かっていたので27日午前午後にわたり詳細拝観した。 静寂そのもののような慈眼、美しく通った鼻梁、花が咲いたような唇、相貌実に円満、螺髪は細かく前額髪際35粒を数えられまた両肩はなだらかに肘張りも少なく、結跏趺座動ぜざるひざの比例、流暢な衣文等、練達の彫技になる定朝様式のおおらかな尊容、両手の印相よりいって下品下生の阿弥陀如来で暫し吾を忘れて恍惚とさせられた。しかもそれが鋳造の像であるだけに一層驚嘆をせざるを得ないのである。 この藤原調の像が何時頃鋳造されたかといえばその鋳造技法より見て鎌倉時代初頭と思われ原型は木寄せ法に木彫像によったことは頭部が分鋳されて首臍で差し込まれ膝は同じ法法で胴体に接合し右手は膝の関節よりつけてあり、左手は手根部の衲衣に差し込みにしたいわゆる吹き寄せで全体的に1分半くらいの厚さに鋳造されてその精巧なのにまた驚いた。 鋳肌の荒れているのは伝えられるがごとく河中にあったとすれば流水や砂礫などによる傷であり又露佛で放置された時代も想像される。月桂寺に安置されるまでの間に転々としたことは後補ではるが木造の蓮華と返花が上下逆にした台の上に置かれたことでも判る。 紀念銘でもあろうかと蜘蛛の巣やホコリの中をくぐって懐中電灯で点検したが無く、惜しいことに膝の前部と背面に損傷があり、又右手の中指が欠け損じている。 藤原末鋳?初の堂々たるこの像が果たして勝平寺のものか、或いは四天王寺のものでなかったかろうかかと疑われるもするがこれは郷土史家の研究にまたなければいけない。美術的にも極めて優秀な半丈六鋳造の仏像は全国的に見ても少ないものと思われ、実に貴重なものでありまさに国宝級のものである。斯うした民族の誇りとでもいうべき貴重な文化財が保護保存のみならず、、一般の人々の目に触れ親しみと喜びを与えるような設備がほしいものと毎回痛感される次第である。 天徳寺の什宝について 佐々木素雲 秋田市の北方泉山古城址を背後の叢林中に巨大な茅葺屋根の一角をみせている万固山天徳寺は曹洞宗の大伽藍、秋田藩主佐竹氏累代の菩提寺である・・・ことは秋田市人なら誰でも知っていることである。 殊に今回秋田観光三十景に当選して先日魁紙にその全貌を紹介されたので一層認識を深めたことと思う。 もとは毎年お盆の十六日に什宝の虫干しを兼ねて一般に観せたものであるが私は着年の頃一度見ただけで記憶もおぼろげになっていた。 昨年のお盆、同好の知人に誘はれるがまだ同寺に詣で什宝の拝観を請うたところ、現董前田亮田老師は快く引見され、実は昭和のはじめ盗難にあってから人手もなし中止してるとのことであった、しかしせっかくのことだからとて、主要なものを宝蔵より持ち出して見せられたがそれは悉く藩主施入の貴重なものばかりで、中には破損したものもあり今にして保存の策を講じなければ、滅失のおそれがあり年々荒廃してゆく大伽藍維持と共に苦慮しているとは、前田老師の嘆きの談であった。 二十余年間の空白は市人の間には或いは忘れられたことであろう。此の際有志の賛同をもとめて保護保存の為の対策をたてられてはと勧めたのが機縁となって、昨年十月有志を招待して什宝を展示された。 佛像、佛画、写経、歴代藩主の肖像其の他の書画調度品等数百点、其の中に寺伝、兆殿司筆絹本の十六羅漢像十六幅がある。この伝えについては曽つて模写のつまらないものと聞いていたが私は一見どうしてつまらないのかその優秀なるに驚いたのである。 吉山明兆の羅漢図は京都東福寺蔵国宝の五百羅漢や、東京根津美術館蔵のものを見ているが、天徳寺のものはそれとは描法の異るものである。大体羅漢像は胡貌梵相とかいって絵画でも彫刻でも、デコボコ頭の醜怪な面相のものが多く、御物の五代の貫休禅月のものをはじめとして大抵然りであるが、天徳寺本は比較的尋常で、画品にいたっては寧ろ明兆より高く、像容は宋の李龍眼様で紋様の布置などは同じ流れをくむ西金居士(注1)のものなど、軌を一にするものである。各像の円光や持具等の一部には截金を用い、耳環腕釧等には鎌倉時代以降の技法である胡紛盛りげに金箔をおき、着衣の金泥や五色の紋様にも時代の特徴が窺はれ、背景描写の技巧等からみて我国専門の画師によって成された、室町時代前期のものと思う。 画面の侍者には今日写真などで見る痩せ細った体躯の、南方人そのままのものがかかれている。実に興味深いものがある。 此の中、全然筆者を異にするものが一幅あり、中心の尊者も小さく截金など用いず、向って左下端に墨書の「香椎」の二文字が読まれ、その左端に文字があるが装?の際半截されて判読し得ない。筆者名か寺系か私には解らないが時代は室町であろう、いずれも相当破損しているが改装されて見るには差支えない。 去る五月初旬来秋の上野藝術大学学長、脇本同大学教授、坂崎早稲田大学教授の三先生一行を私が案内して、市内諸家秘蔵の古典美術を巡覧したが、脇本楽之軒先生は古美術鑑識の権威であり、殊に羅漢画については詳しいときいてることとて、好機とばかりその朝天徳寺より一幅をとりよせ、武塙市長邸でお目にかけたがその際、之は高山寺本などの系統のもので君のいう室町よりもっと古い、寺が近ければ全部みたいとのことであった。午後車をかって同寺に十六幅をみられたがその結果成程時代は少し下る。やはり室町である。しかしなかなか佳い、現行法では重要文化財を少なくしようとしているので如何かと思うが、以前ならば重要美術に指定さるべきものであるとのことであった。私には真に嬉しい裏付けをされた訳で、この名画は四代義格公が寄進せられたものである。 この外寺伝、唐の普悦書、絹本の十三佛、他一幅がある。各像截金紋様巧緻を極めた美しいものであるが様式から推して時代は室町である。 鑑賞画としての佛画の中白描の大幅文殊は唐の呉道子作に倣ったものであろうが、筆者は狩野常信、流石に探幽に優ると云われただけあって佳作である。 又、寒山拾得の対幅は画印だけで筆者がなかなか判明しなかったが、古書を調べた結果それは狩野元信の画風を最もよく伝へたといはれる、相州小田原北條氏政の絵師名は宗祐玉楽と解った。 九代天樹院義和公が御母君菩提の為めに画かれた聖観自在薩?像がある。 最後の藩主義尭公が施入された八幡太郎義家、新羅三郎義光(佐竹氏祖)像の双幅は共に上疊に座し烏帽子大鎧を着用、その相貌は京都高雄、神護寺蔵国宝源頼朝像の筆致に似て、古調を帯びてはいるが鎧の胴絃走の竹葉の紋様は、古来の染革を集成書の彙集にはなく類例を知らない。長別尻の鞘の太刀の下げ紐のが猿手ではなく飾太刀の如く片鐶手貫緒にしてる杜撰は、相馬地方の絵師の作ででもあろうか。遠くは無いが江戸時代の以前ものであろう。 歴代藩主の肖像画中最も特異の相貌は、三代義處公でこれは其の真を写したものであろう。又有職故実より装束の正しいのは、蘭画の名手曙山八代義敦公像で、絵画としても傑出してるが、之が没後直ぐ画かれたものとすれば、集古十種編纂で著名な楽翁松平定信と親交があり、その影響をうけて故実等に精通した義和公の用命の故であろう。江戸時代武家風俗史料としても貴重なものである。 写経には藩祖義宣公の世子となった弟義直が、後、廃せられて京都御室の仁和寺に入りて僧となり、同寺内尊寿院を再興されたといわれる阿證上人が、義處公夫人宝名院に贈られ、享保年間施入された光明皇后御真筆と伝えられる、法華経八軸があり、紺紙に金泥をもって書写されたものである。 光明皇后が御願経と称する物は、全国に5千余ありといわれるが、今此の書経をみるに天平録とは異なり、専門の写経生の手のものとされたことは確実であるが、時代は遥かに下るものであろう。 寒中湿気の為めか、金字が青錆を生じてるものがあり惜しいことである。 納経は種々保存されているが、義處公書写のものがもっとも多く、中に御母公の菩提のため、壱岐守義長と合作のものがあり、御母公2代義隆公夫人は、非常に賢明御兄弟仲の睦しさがしのばれてまことに床しい。 書蹟には徳川家綱将軍に招かれて、明国より来朝し山城宇治に黄檗山萬福寺を創建、我国黄檗宗の開祖となった隠元禅師、同二世木庵、隠元と共に来朝した即非の三禅師が一紙に書かれた法語が珍しく、又明より来朝して水戸の義公徳川光圀の師と仰がれ、書画を能くし、篆刻に巧みであったといはれたる東皐心越禅師の「萬固山」、「大雄寶殿」の篆刻の額がある。 心越禅師は余程の傑物であったらしく、一日光圀が禅師の定力を試そうと思い、招いて饗応し予て隣室に用意してあった鉄砲を、不意にドカンと放った。驚くか思いの外、禅師は平然として少しも乱れなかったので光圀は「客人に対し失礼の段誠に恐れ入る」と申訳された。禅師は「イヤその遠慮には及び申さぬ、武門の慣い、敵味方とも何時発砲あるか測られない」と少しも気にかけずやがて「御返盃」と差出した盃を、光圀が将に口の辺りへ持ってゆこうとする刹那、大唱一聲「カアーッ」とやった。流石光圀も覚えず、持っていた盃を落として「何をなさる戯れはご無用に願いたい」と云うと、禅師は容を改め「棒唱は禅家の茶飯事、武門の鉄砲と選ぶところはありません」と応酬した逸話が伝えられているが、藩公のどなたが、この棒唱を食らって、篆刻の額を得られたことが想像されて面白い。 工藝美術品としては、七代義明公夫人光源院の施入の文台硯函香匣、その他の調度品は何れも目のさめるような華麗な蒔絵ものであるが,葵紋のついたものの中には、光源院夫人が徳川三家紀州、嫁入りで入輿の際の持参品で、古代蒔絵で有名な青海派の工人の作もある。流石に大名物の豪華さに魅せられる。 乗り物駕籠と共に皆逸すべからざる風俗資料である。 本堂須弥壇上に置かれた、二基の青銅製花瓶も見逃し得ない。此程工芸品の尤もなものである。 佛像は江戸以前のものはないようだが、本尊の観音座像は台座が大き過ぎるが、多分数度の火災に残った別々のものを、一具にしたものであろう。本堂内陣に向かって右室の問答形の文殊坐像は、木彫漆箱、奈良興福寺講堂の文殊に倣った像容で、江戸時代の逸品である。 総門に置く八尺余の木彫仁王像は、同代中期の京佛師の作、優秀な点では県内これに比すべきものは少ないであろう。又藩公の念持佛厨子入観音立像は、同江戸爛熟期の肉身は粉溜といって純金粉を塗ったもの、條帛や裳には金箔の上に唐草の模様、美しく蒔繪をした精巧な木彫である。 総門をくぐって右側に、四佛を彫刻した丈余の宝篋印塔が建っている。これはもと赤沼の同寺閑居院境内に在ったものを、山門の前の不動の石浮彫と共に移されたもので、各部の比例、内衡、調和等がよく出来た石造美術である。 以上は什宝の一部に過ぎないが、昨年秋も晩く有志によって天徳寺顕彰保存会が結成され、会長に佐竹義栄氏、副会長に武塙秋田市長、前田亮田氏。他十氏を委員に挙げ、名刹の維持と什宝の保存に尽力されている。 今度平和と観光三十景色選を機として、年中行事であった虫干を復活することにしたが、文化財に対する一般の関心がたかまりつつあるの時、大いに賛意を表する次第である。 今夏お盆の十六日に行事の虫干しを復活して、一般に見せたが、遠く市外より団体見学などがあり、約5千の観覧者で賑わった。意外としたことは青年層の多かったことで、中には熱心にしかも詳細説明を求められ、模写などしていたものがあったことである。 注1 http://www.manabi.pref.gunma.jp/bunkazai/b102061.htm 秋田市建都350年記念文化史展 昭和28年8月 秋田藩の美術と感想 8月14日より20日まで、一週間に渉って行われた秋田市建都350年記念祭は、秋田市始まって以来の豪華な祝典として、県市の人々の喜びの声に迎えられ、楽しく賑やかに終わった。 今春4月秋田市文化財保護委員会において、豊沢武氏が「佐竹義宣公が今の千秋公園に築城して、土崎城から移られてより、本年は350年に当たる」ということから、此の秋田市の創業を記念する、せめて資料展でも開催してはどうかと、委員一同市当局首脳へ陳情したのが動機となって、私共委員の度肝を抜くような大祝典となった。 千秋公園が多年要望の市に移管され、また水道施設50周年記念の3つを併せた行事にしても、之は市当局の大英断であっと思う。しかもこの祝典行事に、県内市町村が協賛して各自慢の芸能その他を以て参加し、いっそう多彩なものにしたことである。 文化史展は、市社会教育課の担当で、文化財保護委員と特に委嘱の委員とが協力、各得意のものを分担して当たった。 限られた狭い会場にいかに出品を陳列したものか、最初からの悩みであったが、文化史展だからとて何でも集めて、夜店の道具屋では困るのである。然るに慎重に考慮を払われた結果、乱雑にもならず、又必ずしも代表的なものではなかったが、各種に渡って筋の正しいものを重点的に陳列し得たことは幸いであった。 藩主に関するもの、又藩民各層のその道による文化の業績がそれである。 佐竹公の肖像は、その没年直後にかゝれたと思われるのは、三世義處公以下で、九世義和公が狩野秀水、十二世義堯公が寺崎広業の作で他は作者が分からない。然して束帯の正しい装束は八世義敦公像で、流石は有職故実に詳しいと云われた義和公の命で描かれたもの、絵画としても秀逸である。藩祖義宣公像は、明治時代の作。肖像としては迂遠で之を除き、又二世義隆公像はおもしろい像容ではあるが、蘭画調から推して或いは荻津勝孝などの作でもあろうか。年代的へだたりからその真を写したとはとは思われない。容貌のもっとも特異なものは義處公で、生彩奕々たるものがあり、各像それぞれ個性が描写されていて佳いものである。誰かが殿様のようではないと云っていたが、これがもし錦絵版画の、ノッペリした無表情の役者のようなものばかりであったら、興醒めであったろう。 書画には義處公の「法華経」八軸紺紙に金泥書きのものがあり、累代中公ほど書写納経された方が無く、如何に信仰の志厚かったか、寺院を建てたり、又佛像を造顕して寄進施入の記録が遺ってる。六十七歳という藩主中の最長寿者であり、且つ藩治が確立して富裕な時代であった故もあり、女性では義敦公夫人貞明院賀子の八句陀羅尼経があり、夫君源通院菩提のため書かれたもの、経巻の装?に用いた高級な金襴表紙は華麗なもので染織図案の好参考品である。 義敦公即ち曙山の蘭画「蝦蟇仙」の画因は、中国元代の顔輝作のそれから出ていることは説明するまでもない。遺作は画品高雅である。鉱山開発のため招聘された平賀源内より西洋画法を伝えられ、容れてこれを学び、或いは著述し、又ローマ字印を用いるなど、当時の国情に於いて敢えて異常を成した先覚者としての情熱とその偉業を讃えたい。しかも秋田蘭画が、繪も分からぬ愚直と、奥羽の人々を貶しめ、自己の画技を誇った司馬江漢より先に発展したことは実に興味が深い。 又公の書で、当時赤沼の雪見御殿に掲げられたといわれる「飲山亭」の額は、何ものにも囚はれない豪放とも神韻とも、いいようのない風格のある大文字である。 「不忍池」は蘭画の大幅、小田野直武作で彼の大成あるは曙山公の庇護によることと思う。 天樹院義和公の「風竹」の繪は水墨の濃淡能く民生活の興味深い資料であり、佐藤きん斎の嘯いて風を呼ぶ「猛虎」は、画面に躍動、きん斎としては上乗のの作である。 書跡は余枝に属するものも多く詩、語などの大幅よりは、消息分に気取らない赤裸々なものがあり、それが書者の真実の力と書風が窺われ、反って楽しく親しめるものがある。 当時余り発展していたとは思えない秋田藩の染織界に、出来そうもなくしてしかも城下に於いて文化五年織り始め、約五年の日数を要して同九年に完成された綴織の「涅槃像」縦三間、横二間の大幅は、僧・俗・信仰の結晶とも云うべきもので、涅槃直前の老釈尊の面相至妙、構図色調織物とは思われぬ位優れた、秋田としては空前絶後の、珍重措く能わざる芸術品である。画工津村洞達・織工村上円八・門人石川忠吉と作者めい及び願主等の名も織り込まれている。昨秋県重要文化財に指定されたが、国指定への申請をなすべきものと思う。 刀匠天野高真作大小刀、秋田正阿弥家の鍔は始めた見たが意外に出来が佳い。明治大正の頃、秋田金工の盛んであったのは、此の伝統によるもので、決して偶然ではなかったのである。 風俗資料としての武家の火事装束は、能楽の衣装でも見るような華やかなもの、説明がなければ、之が火事装束などとは思われない。斯うしたものにも装飾美を忘れぬ祖先の優雅な情調には感嘆の外ない。 百数十点の及ぶ出品は、いずれも貴重な文化財であるが、その中私の最も感興をそゝられたものは、甲冑であった。 義重・義宣二公の着用されたものは勿論、江戸時代の泰平期に、藩主一代一領もしくは二領新調されて所持されたことは、当時謂わゆる治に居て乱を忘れざる武士のたしなみからの所産であろう。 曾て上野の博物館や九段のの遊就館の硝子張りの棚に飾られた各時代の武具甲冑を覗きまわって、日本人通有の前世代への郷愁とでも居るべき感情から、引きつけられたものであったが、今度も実は十領の甲冑をそうした気持ちで漫然と見過ごしていたのである。然るに展覧会終了の翌日、この機会にと、一領づつ部分々々手に取ってみて、思わず賛嘆の声を放たずにいられなかった。 殺伐なものに連想された勝な武具としての甲冑が斯くまで芸術化され、実用以外に善美を盡したものとは、之まで迂闊千万にも知らずにいたのである。 一種の信仰から神仏が宿ると云われる兜の頂辺の穴、即ち八幡座の構造は様式化した蓮の花が開いた形で、径7・8分位、透し彫された小花弁でその裾を囲み、一弁一弁克明に刻んだ菊花の座で受けているが、其の彫鏤の精巧なる、これだけでも立派な美術品である。その他各部品悉くが巧緻を極め、驚嘆すべきものがあり、その一々の説明は到底筆紙に盡し難い。 金工・染織・漆芸等それら工人の精魂こめた妙技を総合して完成された、絶賛すべき一代美術工芸品である。斯く技術の秘法を盡してなされた甲冑も、今は武具としての使命を全く失い、もっぱらに骨董として無用の長物視されてるが、よしやその本来の使命が滅んでも異常の如く大美術工芸として、現在にも将来にも、工芸家美術人の摂って以て学ぶべきものが余りにも多く、この厳然たる事実は、単に封建的遺物として白眼視することは毫末もないのみならず、時代が如何に変遷しても、日本民族が世界に誇り得る大芸術とその生命は脈々永久に息吹くことであろう。 折々郷土の古典美術を見て回り、その現状よりして、散逸煙滅することを悲しみ、保護保存すべきを提唱、県総合美術連盟規約にも一項を制定、同憂の人々と共に之が収蔵の美術館か博物館建設を当局に陳情してるが、時様の熟せざるか顧みられないのは遺憾である。 又藩主菩提所として多くの什宝を襲蔵する、名刹天徳寺については、請うてそれを拝観して感じた事があり、前田老方丈に勧め、有志を以て顕彰保存会の結成されたのは、26年仲秋の頃であった。会長に佐竹義栄氏、副会長に武塙市長を推し、十数名の委員を挙げて対策と紹介に努め、今春明治以前建造物と一切の什宝を包含、境内を併せて県重要文化財及び史跡として指定されたが、しかし保護施策は未だ及んでいない。 今回祝典の文化史展によって一般の認識を深め、博物館建設の要望、天徳寺保護のことが強調され市首脳も賛意を表し、共に与論の昴まりつつあることは洵に喜ばしいことで、速やかにその実現を希って熄まない。 建都350年記念祭は、単なるお祭りではなく、斯うした方面にも意外な反響を呼び起こしたことは大きな収穫で個人としても実に愉快である。 陳情書 今回県、市当局が平和会館を建設することが新聞紙上に報道され、文化の表象ともいうべき会館の建設は年来我々の希求して熄まざりしことで、寔に感激の至りであります。 然るにその構想中、現記念館を解体してその跡に建設するやに聞き及んで愕然としたのであります。 戦後所謂再建文化の声に呼応して各そのいそしむ道にしたがえ即ち美術においては顧みず衷情を述べて懇願する次第であります。 昭和28年3月 日 秋田県美術連盟 印 秋田華道連盟 印 秋田県知事 池田 ーー 殿 秋田市長 武塙 ーー 殿
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