秋田市 齋藤佛師ホームページ
「慶派佛師と丹海との関わり]齋藤 雅幸 2000年8月15日 |
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慶派佛師と丹海との関わり 1)家伝 「康傳・康朝の手紙の写し」 2)康朝作、未完の不動明王像 3)丹海の作品 |
慶派、康傳・康朝の手紙の写し(原文参照) 一、本朝大佛師之始りと申は正暦二辛卯四月於禁中涼殿御八講御執行御本尊釈迦三尊元祖定朝法印彫刻有りし處其頃 正暦二辛卯年より 寛政四壬子まで八百二年なる 一、人皇六十六代一條院帝宇成りけるに右佛躰に奇瑞ありて定朝替被為召替以来日本の諸宗一宇之本尊彫刻すべしとて禁裏地下官人列に被仰付家領山城国田中村おいて頂戴し又御役儀として御所々々様御星尊像毎歳変に為御吉例彫刻奉獻依日域大佛師勅許被成下(中略) 元祖定朝より私共迄血縁相続仕候大佛師と申は私家に限り候義に御座候故 御神躰御佛像多少に不限り被侯付て被成下候近年ご不因に 相成候に付此度為弘私名前処付書記差上候間職分御用之節は何而も此書付を以御尋可被下候様に奉頼候随分相働料物下直に仕下地より入念結構に仕立差上可申候間御用被侯付 被下候様に奉頼上候以上 六代 運慶法印 日域惣本家元祖定朝法印 七代 湛慶法印 禁裏 御用所大佛師師職 関東 正統當持三十世 法眼七條左京 康傳 同苗三十一世 法橋七大貳 康朝 京室町通錦小路上町東側
丹海について調べてみても資料がほとんどなく、どうしても壁に突き当たってしまいます。詳しく書き綴ったものがあったと、父は祖父から聞いたそうなのですが、隣家からの火災で焼失したそうです。丹海は明和七年から文政元年(1770-1818)であり、一方康朝は(1759-1818)ですので時代的には符合します。 良くある話かも知れませんが、代々の言い伝えによれば丹海は京都での修行中大変傑出した腕前で、師匠の信頼が厚かったそうなのですが余りに腕が良かったため、同じ弟子達に反感を買い、陥れられ、京都には居れないようになったと伝えられております。京都からふるさと青森に向かう帰路福島に寄り、滞在し仕事をしています。その後青森に帰る途中秋田によりそのまま、秋田の人となったようです。 新屋薬王院の住持となり真言宗となって妻帯したようです。どのような縁かわかりませんが、一代目齋藤市郎衛門が丹海につき佛師の手ほどきを受け現在に至っているわけです。 さて以前秋田市のある寺から修理の依頼を受け、雨漏りのため接着部分がほとんど離れかけている不動明王の修理をしました。檜材・寄木造り、身丈一尺五寸の不動明王座像で一見しただけで中央系の佛師の作ったものと判ります。修理している間に嵌め込んでいた首の部分がとれてきました。それには三十一世康朝の銘がはっきり記されておりました。(写真参照) ただこの像は布着せをして漆下地をしただけの像で、彩色の後は全くありませんでした。私たち地方においては中央のしかも京佛師で正統派の慶派の佛像など手に触ることなど珍しく、その時の感動と感激は今でも覚えています。 私は時々佛像や佛師についての講演をたのまれ秋田では滅多に手に掛けることのない、この慶派の佛師の作った不動明王の話しをしていました。そしてある時話しをしながらふっともしかして、丹海が手本にするため京都から持ってきたものではなかったのかと気がついたのです。すぐに慶派の三十世、三十一世の経歴を調べました。丹海が上京した時期並びに前述した「嘆願書」の写し、考え合わせてみると絶対何かの関係が有ったのだとの判断に達しました。 丹海は秋田八幡神社及び金砂神社の彫刻の彫刻を手がけたほか、その他処々に佛像を刻み安置したようです。私の菩提寺の大権修理菩薩は丹海の手になるもので、花押も間違い有りません。当然対の達磨大師ほかに拈華微笑の本尊釈迦如来、地蔵菩薩などが丹海の手になるものと推測されます。(齋藤佛師歴代作品を参照) 七代目榮太郎の弟子の橋本金太郎氏所有の天神像裏書きに「前佛性台院 薬王密現住 謹 丹海」 と有り、前住の佛性台院から佛性院の名を取っのたかも知れません。又、今はない新屋や薬王院の丹海の墓石には、「贈法印丹海不上位」とあり没した後で「法印」を賜ったとも 考えられます。「法印」は佛師の位では最高位で亡くなった後のものと思います。父や叔父は佛性院丹海と呼んでいました。
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