秋田市 齋藤佛師ホームページ

「続・菩薩型阿弥陀如来」考察

齋藤 雅幸  1998年8月7日

 本尊阿弥陀如来(菩薩形)
  台座共総高さ   2尺3寸3分
  台座幅       1尺3寸5分
  台座奥行         8寸
  蓮台までの高さ  1尺2寸6分
  佛様総高さ       9寸8分
身丈(座割)         7寸  
  佛様奥行(裾先〜臀部) 8寸
脇侍勢至・観音菩薩
  台座共総高さ   1尺8寸
  台座幅          6寸
  台座奥行        5寸
  蓮台までの高さ    6寸3分
  佛様総高さ      9寸2分
身丈(立割)        8寸  

大日所変阿弥陀如来
 調査してみますと,この阿弥陀如来は古文書に書き残された阿弥陀様ではなく二度に火災によって焼失し新たに作ったものとわかります。

   1619年 来迎の阿弥陀三尊を作る
   1633年 阿弥陀堂焼失。阿弥陀三尊はこの寺に預ける
   1640年 阿弥陀堂再建
   1778年 阿弥陀堂全焼、阿弥陀様も消失
   1780年 阿弥陀三尊再興
   1785年 阿弥陀堂再々築
   1875年 阿弥陀堂この寺に預託
 
ではなぜ、今まで来迎の阿弥陀如来であった像を密教系の佛像に作ったかという疑問がわくのですが、そこに佐竹義継(阿証)の名前が思い出されます。
 
 阿 証(あしょう)
 (慶長15年〜明暦2年閏4月8日)1610-1656
 芳揚軒。本名義継、義直、佐竹義重の第五子。申若丸、彦次郎。長兄が義宣。母は細谷氏で妾腹の子。公的な履歴は知られず、いわば史書の裏側に生きた人と言える。正規ではない出生を持つ人間には、まず流転がつきまとう。

 幼くして一門の佐竹北家・佐竹義廉の養子になるが、長兄義宣に実子がないため、元和7月(1621)、40歳違いの兄に養子入りした時は10歳。11月14日、将軍秀忠に佐竹嗣子として謁見、名を義直から義継に改める。15歳の春、事件が起こり彼の運命を変える。寛永3年3月20日(1626)、江戸城本丸で猿楽の興行があった。居眠りをはじめた義継を、義宣は伊達政宗に教えられた。怒った義宣は、翌21日勘当、24日彼を江戸から引きあげさせ、4月17日久保田城下の一乗院に預ける。

 その後、義継は一乗院の宥増に習い出家を希望、京都に出て四条柳町馬場の邸にはいる。槙尾山で三帰五戒を受け、寛永15年2月15日(1638)、髪を切る。27歳だった。

 正保3年2月(1646)、仁和寺塔中の尊寿院を再興して6年住み、45歳で没。20年後の延宝3年(1675)、仁和寺門跡性承(後水尾帝第三皇子周敦)は、阿証に法印の号を追贈した。

◇「芳楊軒阿証」ABSレポート20号・昭和44。伊頭園茶話。秋田魁新報・昭和10年5月11日付
 なお「尊寿院阿証上人伝」は笹尾哲雄著、秋田名僧列伝にも詳しく書かれています。

     
宝冠梵字配置図   

 この阿証の出現によって、火災で焼失し再興するとき、密教系である仁和寺の佛師に制作依頼したのが自ずと推察されます。しかし「来迎の阿弥陀様」とあまり聞き慣れない「大日所変の阿弥陀様」は何か共通項がないか調査を試みました。

大日所変について

  大日所変という言葉を聞いたのは初めてのことでありました。宝冠から何か手掛かりがないかと調べてみました。宝冠には梵字配置図のように、大日如来を表すバン(大日如来)が正面に書かれ右回りにウーン(宝幡)、アク(不空成就)、キリーク(阿弥陀)、そしてタラーク(開敷華)と続きます。それらの梵字は金剛界曼陀羅五佛と一致します。

 では大日所変というのはどこからでてきた言葉なのでしょうか。また金剛界の曼荼羅の中にこの阿弥陀様と同じようなお姿、形のものがあるか調べてみることにしました。大正新脩大蔵経の図像部十巻を調べます。「図像抄」「阿裟縛抄」「別尊雑記」「覚禅抄」などの図像が網羅されております。「両界曼荼羅」西方の阿弥陀如来で、このようなお姿をした阿弥陀様を探してみたのですが如来形はあるのですが、菩薩形は見いだすことはできませんでした。ただ菩薩形をした紅頗梨色阿弥陀如来は書物や作例があります。重要文化財に指定されている快慶作や江戸時代初めの東京、安養寺阿弥陀如来が有名で赤色のお躰、宝冠を戴き印相は法界定印や上品上生ですです。

 地方の佛師において、佛像制作は大変な作業であったと思われます。近くの寺院などにいって調べてみてもいずれ同じような佛様で、秘伝の本にもあまり種類がありません。でも江戸元禄本の「佛像図彙集」は種類の豊富さ、またわかりやすい解説で、代々受け継がれた本の汚れ具合で想像がつきます。その中にこの阿弥陀様と大変似通った像を見ることができます。

                 
        妙観察地の彌陀         

 曼荼羅について大変分かりやすく書いた文献がありますので、見てみることにします。 密教図典(筑摩書房)には次のように書かれています。
 「七世紀前半の『大日経』、七世紀半ばの『金剛頂経』の成立以後は、大日如来が他のすべての神仏の主尊となり、他の神仏はすべてこの大日如来の分身であり、流出の神仏であるとされるに至った。この関係を、系統的に図示したものが「曼茶羅」である。

「マンダ」とは「上味」とか「醍醐」とか訳されて来た語で、乳の最上等なるものをさす。エッセンス、本質に当る。「ラ」は、「・・を所有するもの」に当る語尾であるから、マンダラとは、「(仏の)本質を所有するもの」という「ことぱといえる。つまり、このマンダラ上に描き出された無数の仏・菩薩・諸天・善神は、いずれも中尊の大日如来と本質を均しくする分身であり、価値を一つにする(「同一法然位」に立つ、という)わけである。
 
 かかる密教の仏陀観(仏身論)は、二つの方向から考えられる。一つは、仏の真実が、あたかも母の胎内に嬰児が蔵され、やがて折を得て出産するような実在の世界像である。これを「大悲胎蔵生曼茶羅」、略して「胎蔵界曼茶羅」という。『大日経』の説くところを図示したものである。
 もう一つは、その実在世界に到達するための人間の修行の階梯、知恵の在り方を示したもので、「金剛界曼茶羅」という。心が金剛(絶対不壊)のように不退転となることをめざすマンダラということである。『金剛頂経』を典拠とする。
 
 この二つのマンダラを、それぞれ理のマンダラ・智のマンダラといい、あるいは「金胎両曼」という。人間の求める実在と現象の一致が、二つの世界像に結実したわけである。
 
 「胎蔵界マンダラ」は、中心に大日如来を描き、これを初重とし、以下四重の異形の神仏に至る形をとるため、これを「四重マンダラ」という。「金剛界マンダラ」は全体を九分し、真中の翔磨会から右廻りして、右下の降三世三味耶会に至る「九会マンダラ」の形をとる。二つの世界像に分けて描かれるが本来は「金胎不二」であること、「曼茶羅供」といわれるように、マンダラは供養する者を仏の世界へ誘う法具であることを忘れてはならない。」

阿弥陀様をお経の中から見てみることとしました。

 胎蔵界曼荼羅尊位現図抄私巻第一の「西方無量寿佛」の中にありました。(原文参照
 「大日経に曰く」・・・小略「問う、この尊の種子如何。答う、四種阿字中辺際めて暗きこの字、即ち西方涅槃の故なり。常に阿弥陀種子キリーク字なり。何ぞ之を用いずや。常に彌陀異り、八葉九尊皆大日所変也。故に四方の佛、皆阿字(大日如来)を以て本体となす。四方点を加うる也。是即ち中台(中台八葉院)法界体性智に従って四方四智に流れ出意也。尊色黄金色、是修理円備色、真金者破壌すべからずの義也。印相妙観察智の定印の者(阿弥陀定印)。或いは記して曰く、彌陀は六道衆生病躰縁を為し、妙観察智定に入る。是れ衆生塵労(煩悩)無盡を観察の妙薬を与えるの意や」・・・・略。

 多くの儀軌を読んだのですがやっと「大日所変」という言葉に出会いました。前述の密教図典(筑摩書房)には次のように書かれています。
 「密教ではもともと大日如来をもとに三輪身をたてる。すなわち佛は本来の自性の佛体であるから自性輪身とよび、修行中の菩薩は佛が正法を説きあかし衆生を導いたり教化したりするために〔仮に〕菩薩の身に現じたので正法輪身とよぶ。これらに対して明王などは、佛の教えを奉じて難しい衆生の教化にあたるので教令輪身という。しかしいずれの変身も仏・菩薩・明王おのおのすべて大日如来の一身に帰納させる。そのうち仏は、大日・阿?・宝生・阿弥陀・不空成就の五仏に統合されている。ただ菩薩以下はあまりにも尊像が多く、展開も複雑であるため、内的性格・特色・能力といった「すがた」「かたち」をシンボル化するため「形姿」「持物」「印相(手の組みかた・表現)」「身色(本体の彩色)」など細かい約束ごとをきめた。これが仏教における図像である。仏教図像のうちで具体的には密教図像が大部分をしめる。」

 又、図像についても詳しく述べております。

 「わが国における密教図像は空海によって両界曼茶羅が請来されて以降、他の入唐八家(空海、常暁、円暁、恵運、宗叡、最澄、円仁、円珍)によって数多くの白描・着彩図像が請来された。やがて平安時代末期になると東密系で恵什などが彩色の『図像抄』十巻(『十巻抄』ともいう)をあらわし、心覚が白描の『別尊雑記』五十七巻をまとめた。さらに覚禅は『覚禅抄』百二十巻を、また台密系でも承澄が『阿娑婆抄』二百余巻を編集した。これらのほかに鎌倉時代以降江戸時代までおびただしい量の図像粉本が写された。」・・略「また、前述のように、平安時代末期になると、東密では図像の整理が急速に進んだが、『図像抄』はその草わけで、作者に永厳と恵什の二説がある。醍醐寺には古い写本が現存しているが、巻子で、十巻抄ともいい、如来部から天部までを描いている」

 もう少し儀軌を読み続けます。阿裟縛抄第53巻(阿弥陀)集経第二には(原文参照)
 「帖に云く。八葉に於いて八如来を観ず。謂く阿弥陀如来也。その由先日説いた如し。抑、西佛是第六識の変なり(四智)(四智とは、大円鏡智、平等性智、妙観察地、成所作智)。即ち肉団(心臓・密教ではその形が八弁の肉葉から成るという)八葉心処心是也。故に彌陀約す之論に、云々
私曰く。帖決後心薩?如し。大日尊者に成る。凡そこの法大旨観音になる。次に彌陀に成る也。今軌上大旨尚是薩?行法心也。其の観音は最後心菩提也。理趣釈(理趣経曼荼羅)法金剛と名ずく。《極楽補処弟子観音に非ず四親近中菩薩也。即ち是等覚後身受識薩地也》彌陀となるは妙覚究竟毘廬遮那也。台上観音等覚(悟り)一転于妙覚を入る。観自在と名ずく也。《阿弥陀別名也》天冠瓔珞形は、是首陀会天(浄居天)最正覚成る?識也。即ち上品上生教主自受用身の佛也。(故に不空三蔵礼懺に云く。受用智慧身阿弥陀佛。云々)中略
 是に加う。理趣釈に云く。もし人此の一字真言(キリ字真言也)よく一切の災禍疾病を除く。命終後、極楽国土に當に生ず。上品上生を得故に知る。後心菩提薩?此の真言を持す。能く最後品災禍疾病難を除く。はじめ品惑を断じ、命終し後上品上生をなし得る教主也。故に今宗意(宗義)に云く。現世得初歓喜を證す。」

3)結語

 何となくこの阿弥陀様の図像での容姿が見えてきたような気がします。わたしにとっては、お経の中で「大日所変」という言葉と、菩薩形の阿弥陀様の記述が見いだされたのも大きな収穫でした。ただこの阿弥陀様を「大日所変の彌陀」呼べるのかどうかは、よく分かりません。又数多くの両界曼荼羅図の中で、この阿弥陀様と同じお姿を見い出せなかったのは残念に思います。江戸時代に編纂された「佛像圖彙」には妙観察智彌陀として描かれているのですが、この圖彙を多く参照している「江戸佛像図典」(東京堂出版)では、作例がないのか、なぜか「妙観察智の彌陀」が除かれています。重文の快慶作「四十八院阿弥陀如来」と安養寺「紅頗梨色阿弥陀如来」の写真を貼付しておきます。いずれにしても、このお姿の阿弥陀様は私の調査した限りにおいて、作例や写真を見いだすことはなく、やはり大変貴重で珍しい阿弥陀様であると思います。そして来迎の阿弥陀様が焼け出され、その後なぜ来迎の弥陀が、佐竹家因縁の寺とはいえ、仁和寺という密教佛所でこの阿弥陀様が作られたのか、まだまだ謎を残したままですが、この考察をひとまず終わりたいと思います。
 ()内は筆者注釈  平成10年10月10日   八代目 佛師 齋藤雅幸


参考文献

大正新脩大蔵経 図像部
日本美術大系 彫刻      誠文堂新光社
江戸佛像図典   久野 健 東京堂出版
密教図典 宮坂宥勝・金岡秀友・真鍋俊照共著       筑摩書房
佛像圖彙
佛神霊像圖彙(佛たちの系譜) 伊藤武美著 同時代社
佛師快慶論 毛利 久著   吉川弘文館
佛像図典  佐和隆研著   吉川弘文館
新纂佛像図鑑        佛教珍籍刊行会
名僧列伝「辮榮聖者」紀野一義著  角川文庫
秋田名僧列伝 笹尾哲雄著 普門山 大悲禅寺
プロフィール

齋藤 雅幸 1942年2月生まれ。
 1960年秋田商業高校を卒業と共に、家業の7代続いた佛師の仕事を見習う。昭和55年7代目死去の後から本格的に佛像を彫り始める。国内・外の彫刻や佛像を拝観のため各地をまわる。師匠は7代目憲一。3年余にわたり京佛師松久朋琳氏より通信にて手ほどきを受け、現在にいたる。




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