秋田市 齋藤佛師ホームページ
横手市金沢・前専光寺「葬頭河の姥」像考察齋藤 雅幸 1999年6月20日 於 秋田市 釈迦堂光明寺 |
|||||||||
本尊は檜材の一木造りで下の図のように、三材を接ぎ合わせています。しかし本体の大部分は幅8寸7分・厚さ5寸5分の材で本体の大部分を形作りっており、膝前は芯が近くかなり目が込み入っています。右足と右手は別材で木取り、矧ぎ合わせていますが、手の部分は彫刻した後ではめ込んでおります。 しかし修理した後の手の着け具合が悪く、不自然な腕の形になっております。背の部分は別材を矧ぎ合わせ漆で接着しています。通常矧ぎ合わせてから内刳るのですが、この像の場合は別々に刳ってあり、背後の板は後で付け加えられたことも考えられます。念入りに内刳りを施していますが、内刳りは所々に穴があいており、少々ずさんな面も見られます。 像は全体に胡粉下地を施し彩色をしていますが、長年の経過で当時を感じさせるのは、所々に残る朱色が印象的ですが、他の部分は全体に黒ずんでおります。 彫り口を見ますと、中央系の均整のとれた作というよりは、むしろふくよかで味わいがあり、庶民的な親しみのあるおおらかな像です。木材が檜ということもあり秋田で制作したとは思われません。 厨子背面には宝永6年に「葬頭河姥」厨子制作の由来が書かれています。ですからこの像は厨子制作の以前からあったこととなり1709年以前の作となります。厨子の岩座の彫りと「葬頭河姥」とは明らかに彫刻の仕方が違いますので時代は、もう少し古いものと思われます。尚胎内に「大日如来」と伝えられる像が胎内佛として入っております。
専光寺プロフィール 永享年間(1429-41)天台宗の庵室として開創されたが、江戸時代となって幕府の宗教統制によって、元和元(1615)年、金蓮社宝誉上人蓮花寿円(万治二年寂)によって浄土に改宗された。 享保年中(一七一八-三八)の火災で堂宇・什宝・過去帳等一切を焼失したが、数年後に再建した。 その後、百八十年ほどをへて明治二十九(1896)年八月三十一日、その後、百八十年ほどをへて明治二十九(1896)年八月三十一日仙北郡六郷を中心にしての大地震のため、伽藍が倒壊し翌年に再建したのが現在の本堂である。 (深草の少将)ふかくさのしょうしょう 7代目齋藤憲一作) この寺の貴重な寺宝に、小野小町自作の尊像と伝えられる佛像がある。その縁起書によれば、正式の名称は「護法善神名姫尊」と称し、その姿態から地元の人たちは「ババさん」と呼んでいる。 この仏像は、文明年中(1469-87)入道大江朝臣匡章が出家し、法名を念道と称して諸国行脚の途中、小野村の河原木に一宿したとき、その夜の霊夢によってこの寺に移したと伝えられる。その後、この尊像を信仰すればお産の母乳が授けられるといわれ、地域の人々の信仰を集め、旧暦二月十五日にはご開帳して盛大な祭典を催したという。 現在の専光寺は檀家数がわずか十数軒となり、兼帯住職によって何とか法灯を守っている状態であるが、この貴重な仏像「ババさん」の信仰をもって何とか寺門の再興をはかりたいものである。金沢柵に栄えた歴史のある古刹である。(「秋田のお寺」秋田魁新報社刊より) 専光寺は1999年6月廃寺となり、「護法善神名姫尊」は秋田市、釋迦堂光明寺で保管しております。 |
|||||||||
メインページに戻る | 前のページに戻る |