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「菩薩型阿弥陀如来」考察

齋藤 雅幸  1998年8月7日

「菩薩型阿弥陀如来」考察

1)菩薩型阿弥陀如来の法量

2)阿弥陀様に関する古文書

3)阿弥陀様の銘書き

4)久保田城火災の記録
 
本尊阿弥陀如来(菩薩形)

  台座共総高さ 2尺3寸3分
  台座幅       1尺3寸5分
  台座奥行   8寸
  蓮台までの高さ 1尺2寸6分
  佛様総高さ   9寸8分
身丈(座割)   7寸  
  佛様奥行(裾先〜臀部) 8寸
脇侍勢至・観音菩薩
  台座共総高さ 1尺8寸
  台座幅        6寸
  台座奥行   5寸
  蓮台までの高さ 6寸3分
  佛様総高さ 9寸2分
身丈(立割)   8寸  

大日所変阿弥陀如来

 平成10年7月、以前から依頼のあった阿弥陀如来の修理をすることとなりました。この阿弥陀様は、御厨子の大きさが幅71センチ、高さ1メーター、奥行き63センチ(2尺7寸 × 3尺3寸×2尺1寸)の木瓜厨子の中に納められ、歴代の佐竹のお殿様が本丸の西方に三間四面の阿弥陀堂を作り、代々大切にお祀りしていたものです。 
 叔父の彫刻家、佐々木素雲が県の文化財専門委員をして県内の、文化財を調査して歩いたのですが、調査した佛様の中でぜひ詳しく拝観するように話した佛様の一つでした。

 御厨子から勢至・観音菩薩の両脇侍を前にお出します。均整の取れたお姿に冠・瓔珞・胸飾りを付け、そして衣・天衣・条帛には精緻な載金が施されたお姿です。

 よく見ますと、台座の部分が痛みかけているのが判ります。それにかなりの埃が堆積しています。瓔珞首飾りなどの飾りの中を通している真鍮製の針金が触るだけで切れてしまいます。慎重に光背をはずし台座からお姿をはずしひとまず広い場所で破損部分がないか慎重に調べます。

 幸いにも両脇侍菩薩共に佛様本体は破損がありませんでした。台座の部分には不足が見られました。今度は本尊様を御厨子より出します。この阿弥陀様がこの寺に安置されて以来の御厨子からのお出ましかも知れません。

 まずは厨子より前に出し本尊阿弥陀様を拝観します。美しく一風変わった阿弥陀様です。ふつう阿弥陀様のように如来(完全なる佛)の場合は、装身具などは一切身につけないのですが、髻を結い冠を付け胸飾りをつけて完全なる菩薩のお姿の阿弥陀様です。

 国内の御寺院や博物館等で多くの佛さまを拝観していますが、このような形の阿弥陀様にお会いしたのは初めてのことです。この阿弥陀様にお会いして疑問と興味が一体となり沸々と湧上がってきたのです。

宝冠装身具を外した
阿弥陀如来


1)阿弥陀様に関する古文書(原文はこちら)
 
 この阿弥陀様に関する古文書が有るというにで早速見せていただきました。先人が既に活字に直していましたので、それをお借りして資料と致しました。尚、訳文との違いは、住職さんの奥さんからお聞きしながら補遺しました。古文書には次のように記されております。

  羽州秋田城内の阿弥陀堂わ
    源君中将義宣公当国に封せられ神明山をあらため居城に築き給ひてのち元和年中草創まします所也
    彼御堂は三間四面にして西方の三尊を安置し給ふ
     本尊御高一尺五寸、二脇士くはんをん、せいし、
     御高各九寸五分
    みな蓮臺に立て来迎の相を現はし梵容妙にして金色の肌を耀かし給ふ
    されば我寺の初祖文冏上人の筆記に曰
    浄光院殿天英公わ仁愛よつの民を残し給はす恩澤六の群にあまねし神社を敬ひ佛乗を信したまふ
    元和五年つちのとのひつし秋葉月佛工をして三尊の立像を作らしめ恒に礼拝念誦し給ふとあり」

 この古文書を見ますと、元和五年(1619)秋、葉月佛工に、本尊御高さ1尺5寸、脇侍9寸5分の蓮華の台に立ち、来迎印(上品下生)を結び金色に肌を輝かした阿弥陀三尊立像を作らせたと有ります。所が今私が目の前で拝しているこの阿弥陀様は、立像ではなく座像であり、印相も上品上生です。またどのような測り方をしてもこの寸法にはならないのです。
 
 私たちは通常、佛さまの寸法を身丈何寸とかという言い方をします。佛さまの基本の寸法は1丈6尺です。つまり16尺の佛です。このときの寸法は足先から髪の生え際(髪際)までの寸法を言います。丈六の佛様は座ると8尺となります。又4尺の座像は半丈六と言います。ただ総高さでの寸法の場合もあり、身丈だけと言うこともありません。ちなみにこの阿弥陀様と脇侍勢至・観音菩薩の寸法は上記の通りです。

 このように寸法・印相など、古文書とかなり違いがあります。それに来迎の阿弥陀三尊が、なぜ密教系の阿弥陀様なのでしょうか。
 
 色々な疑問を持ちながらも、塵落としは少しづつ進み、阿弥陀様の台座の方へと移ってきました。全体はかなりしっかりと膠で接着されていたのですが、一番下の雲台がゆるんでおり接着し直さなければなりません。底板を少し叩いてみますと取れそうなので、慎重にゴム付の槌で均一に叩いてみました。すると程なく見事に底板が抜けて参りました。そしてその裏には、つい最近作ったような美しい木目に墨書きで次のように記されておりました。

    仁和寺御佛所
         北川運長作    安永9年庚子春(1780)

 古文書に書かれている製作時期と古は約80年のずれがあります。そこですぐにお寺さんに連絡を取りましたところ,早速いらしていただき、住職さんのご舎弟、小熊つとむさんから次のような資料を戴きました。
   
 久保田城内本丸 阿弥陀堂焼失「回録」暦

       (小熊 ?氏からの資料による)

1. 寛永10癸酉年(1633)9月21日 子の刻出火本 丸焼失
  城    主  2代 義隆
  この寺住職  3世 怒顔和尚
  阿弥陀堂は焼失せるも三尊は持ち出し、この寺に預ける。寛永17庚辰年(1640)正月25日阿彌陀堂成就し、四世覺翁和尚入佛祭礼仰せつけられる。

2.安永7戊戌年(1778)閏7月10日夜四つ半、本丸奥鈴の間より出火、翌朝朝明け六つ頃まで燃え、全焼する。
  安永9庚子年(1780)再営し、天明元辛丑年(1781)5月3日座の間・納戸等一部再建、寛政癸丑年(1793)12月9日再建成る。
  城   主 8代 義敦
  この寺住職 18世 亮胤和尚
 
 阿彌陀堂は残らず全焼した。天明5乙巳年(1785)11月15日旧に因りて阿弥陀佛の像を安置している。

注1 阿彌陀堂完成、入佛祭礼を指している  注2 阿弥陀佛は三尊像にて中央像大日所変阿弥陀如来座像 脇侍像  聖観世音菩薩立像  勢至菩薩立像 佛師 京都仁和寺 佛師 北川 運長

 本城焼失したが財用不如意で再築資金として幕府より借用、又寄付によって寛政5年(1793)に再築を見たもので、阿弥陀堂は天明5年(1785)に完成。屋根の葺き替えを主体に修理が行われ 明治に至る。明治8年(1875)寺に納まったといわれ、現平成8年(1996) 210年が経過している。      以上

 この資料により私のもやもやの一部がなくなりました。そしてこの阿弥陀様は二代目の阿弥陀様という事が証明されました。
                                           (つづく)


プロフィール
 
齋藤 雅幸 1942年2月生まれ。
 1960年秋田商業高校を卒業と共に、家業の7代続いた佛師の仕事に就く。修行の後、昭和55年7代目死去の後から本格的に佛像を彫り始める。国内・外の彫刻や佛像を研究のため各地を巡る。師匠は7代目憲一。3年余にわたり京佛師松久朋琳氏より通信にて手ほどきを受け、現在にいたる。
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